【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆13

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回は、「真我が説き真我が聴く」という独り芝居。

 

①読み下し文

問う、如何なるか是れ真正の見解。

師云く、你(なんじ)但(た)だ一切、凡に入り聖に入り、染に入り浄に入り、諸仏国土に入り、弥勒楼閣(みろくろうかく)に入り、毘盧遮那(びるしゃな)法界に入り、処処に皆な国土を(に?)現じて成住壊空(じょうじゅうえくう)す。

仏は世に出でて大法輪を転じ、却(かえ)って涅槃(ねはん)に入って、去来の相貌(そうぼう)有ることを見ず。其(そ)の生死(しょうじ)を求むるに、了(つい)に不可得なり。

便(すなわ)ち無生(むしょう)法界に入り、処処国土に遊履(ゆうり)し、華蔵(けぞう)世界に入って、尽(ことごと)く諸法の空相にして皆な実法無きことを見る。

唯だ聴法無依(ちょうほうむえ)も道人(どうにん)のみ有り、是れ諸仏の母なり。所以(ゆえ)に仏は無依より生ず。若し無依を悟れば、仏も亦(ま)た無得(むとく)なり。若し是(かく)の如く見得せば、是れ真正の見解なり。

 

②私訳

問い。「正しい見方とはどのようなものですか」

臨済禅師は言われた。

お前はただひたすら、凡に入り聖に入り、染に入り浄に入り、諸仏の故郷に入り、弥勒の楼閣に入り、毘盧遮那法界に入る。それらは皆、故郷(真我の白スクリーン)に現れるのだ。そこ(白スクリーン)で生成し、そこで消滅する。

仏陀はこの世に生まれ、49年法を説かれ、その後涅槃(ねはん)に入られた。その間、「去来するもの」を発見することはなかった。また、「生き死にするもの」も探されたが、これも発見されることはなかったのだ。

すなわち仏陀は、生滅のない世界に入り、あちこち、その故郷(真我)を探索し、華蔵世界に入って、すべての現象は空であり、実態のないものと見極められた。

ただ今この場所には、法を聴き、何ものにも依らず仏道をゆく者(真我)のみがいる。この真我が諸仏(意識)の母体なのだ。

だから、仏は「依らぬ者」(真我)から起こる。もし真我の「依らぬという性質」がわかれば、仏は「得られぬもの」(対象化できない)と知るだろう。このようにわかれば、それが真正の理解なのだ。

 

現場検証及び解説

 

無門関を訳しているときにも感じましたが、、臨済録もまた修飾の多い文章です。簡潔かつ正確に言い表すよりも、いかに豊かに表現するかに力を注いでいるような気がします。ですから、あの手この手で、不立文字を言い立てるというような、矛盾したことも平気でやっている。それから比喩が多すぎます。最初は戸惑いましたが、今はそれが当時の中国文化人のメンタリティなのだと、割り切って理解しています。

この段も比喩を読み解くことが重要です。その言葉で何を言い表しているか、をきちんと特定していかないと、読み誤ることになります。

 

処処に皆な国土を(に?)現じて成住壊空(じょうじゅうえくう)す。

それらは皆、故郷(真我の白スクリーン)に現れるのだ。そこ(白スクリーン)で生成し、そこで消滅する。

読み下し文と私訳を並べてみました。「国土」というのがキーワードです。これは真我のことと理解しました。また読み下し文では「国土を」となっていますが、ここは「国土に」としないと意味が通らないと思います。

「意識はいろんな所に出入するが、その現象が現れるのは国土(真我)という白スクリーン上である、そこで生まれそこで滅する」と臨済先生は言っています。

私が禅の文献を読む際、いつも危ういと思うのは、「国土」のような比喩です。なんでもっとストレートに言わんのか、と。比喩を慮(おもんばか)る後世の人間の身にもなってくれ、と。そのおかげで、誤解が蔓延(まんえん)しておりますぞ、ということです。愚痴はこれくらいにして、先に進みましょう。

 

去来の相貌(そうぼう)有ることを見ず。其(そ)の生死(しょうじ)を求むるに、了(つい)に不可得なり。

その間、「去来するもの」を発見することはなかった。また、「生き死にするもの」も探されたが、これも発見されることはなかったのだ。

これも読み下し文と私訳を並べました。

「去来」も「生死」も現象界のことです。現象界は変化し、生と滅を繰り返しますが、現象界を現前せしめている真我は、変化もしなければ、生滅もしないもの、永遠の存在です。仏陀は真我を発見したので、「去来」「生死」というものは発見しなかった、ということ。

映画のたとえで言えば、現象界は映像、白スクリーンが真我です。映像は泡沫(うたかた)ですが、白スクリーンは映画の最中も映画が終わった後も、存在し続けます。というか、存在そのものと言えます。

こう言えば、割とスッキリと、少なくともイメージできないでしょうか。臨済先生の言い方は、難解なことをわざわざややこしく、言おうとしているようにさえ思います。当時はこれでわかったのかもしれませんが・・・。

もっとダイレクトに言えば、私たちの「肉体とそれに伴う精神機構」つまり、個人は変化し、死にますが、私たちを生かしめている真我は死なないのです。死なないどころか、生じたこともありません。すなわち不生不滅です。ずっとある何かです。受け入れがたい考えかもしれませんが、それが臨済先生が言っている内容です。そうとらないと辻褄(つじつま)が合いません。

 

ただ今この場所には、法を聴き、何ものにも依らず仏道をゆく者(真我)のみがいる。

「聴法無依道人」とか「即今目前孤明歴歴地聴者」とか「面前聴法底」とか、似たような言葉で臨済先生が訴えているのは、皆な「真我」のことです。混乱を避けるべく、同じ言葉を使ってほしいのですが、様々に修飾したがるのが、当時の中国文化人です。言葉に彩(あや)を付けたがります。こちらで注意して意味を特定していくしかありません。

法を説いているのは臨済先生ですが、事実は真我が説いています。聴いているのは衆僧ですが、事実は真我が聴いています。個我は多様ですが、真我は独りです。したがって、この状況は、真我が説き、真我が聴くという独り芝居である、ということです。

以下の文の「無依」は「真我は独立して存在し、何ものにも依存しない」ということです。何ものにも依存しない、そして私たち自身のことであるので、それを得たり失ったりすることはないのです。それが「無得」の意味です。もっと言えば、「無得失」である、それが真我、それが私たちの本来の面目であるのです。

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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