【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆11

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回は、「世間は信仰でできている」です。

 

①読み下し文

問う、如何なるか是れ仏魔。師云く、你(なんじ)が一念心の疑処(ぎしょ)、是れ箇(こ)の魔。

你若し万法の無生にして、心は幻化(げんけ)の如く、更に一塵一法無くして、処処清浄(しょしょせいじょう)なるに達得すれば是れ仏なり。然(しか)も仏と魔とは是れ染浄(せんじょう)の二境なり。

山僧の見処に約せば、無仏無衆生、無古無今、得る者は便(すなわ)ち得、時節を歴(へ)ず。無修無証(むしゅむしょう)、無得無失、一切時中、更に別法無し。

設(たと)い、一法の此(これ)に過ぎたる者有るも、我れは説かん如夢如化(にょむにょけ)と。山僧の所説は皆な是なり。

道流、即今目前孤明歴歴地(れきれきじ)に聴く者、此の人は処処に滞(とどこお)らず、十方に通貫し、三界に自在なり。一切境の差別に入れども、回換(えかん)することを能(あた)わず。

一刹那の間に法界に透入(とうにゅう)して、仏に逢(お)うては仏に説き、祖に逢うては祖に説き、羅漢(らかん)に逢うては羅漢に説き、餓鬼(がき)に逢うては餓鬼に説く。

一切処に向って国土に遊履(ゆうり)して、衆生を教化(きょうけ)すれども、未だ曾(か)つて一念を離れず。随処清浄にして、光十方に透(とお)り、万法一如(まんぽういちにょ)なり。

 

②私訳

あるとき僧が問うた。「仏魔とはなんですか」

臨済禅師は言った。

お前の心の中の疑い、それが魔だ。

もしお前が、「すべての現象は生まれたのではなく、しかも幻のようなもので、塵(ちり=物質)ひとつなく、いたるところが清らかである」と徹見したなら、それが仏だ。

しかも、仏と魔というのは、(対象物に)染まっていない状態(即今)と、(対象物に)染まっている状態(現象)の、2つの状態のことだ。

つまり、ワシの考えによれば、仏なく衆生なく、過去なく現在もない。すでに(法を)得ている者が得るのだから、そこに時の経過はない。だから、修行して証明する必要もない。得ることもなく失うこともないのだ。

いかなるときも、その他に法などない。たとえこれ以上のものを差し出されたとしても、それは夢まぼろしにすぎんと言い切れる。これがワシの法だ。

諸君、「只今即今、ワシの目の前で、独り聡(さと)く、歴然として聴いている者(個我でなく真我・ソレ)」は、いたるところに行き渡り、あらゆる方向に通じ、三界(欲界・色界・無色界)を自由自在に作用する。

現象世界に作用していっても、ソレ自身の性質は現象世界の性質に取って代わられることはない。

即今という瞬間に入って、仏に逢えば仏に説き、祖師に逢えば祖師に説き、羅漢に逢えば羅漢に説き、餓鬼に逢えば餓鬼に説く。

ワシは国中を旅して、衆生に法話をしたけれども、未だかつてこの一念(即今)を離れたことはない。

どこもかしこも清らかで、この真我の光はすべてに行き渡り、多様に見えるこの世界は、実は一なるものの光なのだ。

 

現場検証及び解説

 

仏教の重要なポイントが語られています。そのポイントは、実はとてもシンプルなことなのですが、一般の方々には受け入れがたい考えです。なぜなら、ごく普通の人は世間の常識に染まっているからです。世間の常識に囚われていると、仏教が受け入れられません。

これから仏教を学ぼうとしている方は、身構えるかもしれません。「仏教って非常識なの。ひょっとして反社?」と早合点するかもしれません。そうではありません。しかし、社会の基盤を成している考えを、仏教は「それは違うんだよ」というのです。

社会は次のような考えを基盤にしています。有我、物質と物質の所有、時空間の存在です。

●有我は、個人という存在があり、個人には責任がある、という考えです。

●物質と物質の所有は、客観的な物質というものが、私たちの外にあり、物質は個人と関係し、それが所有されるということ。

●時空間は、物事には因果関係があり(時間)、場には空間があり、個があり、個との関係がある。

仏教はその逆を真実だと主張しています。

●無我。個人というものは存在しない。したがって、個人の責任という問題はない(誤解を招く恐れがあるので、一個人が100%悪いという状況はない、と言い換えます)。

●物質というものはない。すべては識である(唯識論)。在るということはすなわち、識(真我)が世界に触れて現象化したものである。存在は真我が具現化したものである。多様に見えるが実は一なるものである。

●無時空間。ニュートンが主張した絶対空間、絶対時間という考えは、アインシュタインの相対性理論や量子論によって、否定されました。時空間は、認識が起こるための仮の場のようなもので、絶対的に存在しているものではないようです。即今には時空間はありません。ジャスト・ナウという点があるだけです。そのポイントから時空間が広がるのかもしれません。

以上のような対比ができると思います。前者は世間一般で言われていることで、私たちは物心ついた頃から、そのように教育されてきました。しかし、それは自明の理ではありません。そう教えられ、素直に受け入れてきただけです。つまり、習ったのであって、自分で直に確かめたわけではありません。

仏教は自分で直に確かめることを推奨します。確かめれば、有我、物質、時空間という概念がそれほど自明なことではないと、わかってきます。私は瞑想修行をしていくなかで、おぼろげではありますが、そのことがわかってきました。そして、それはますます確信に代わってきています。

なので、今はこう考えています。「世間一般の基本的な概念(有我・物質・時空間)の方が信仰である。仏教の方が事実をダイレクトに言っている」と。

ですから、臨済先生の言うことも、摩訶不思議なありがたいお話として聴くのではなく、事実として聴いてほしいと思います。なんだか、前置きが長くなってしまいました。テキストの解説をいたします。

 

「すべての現象は生まれたのではなく、しかも幻のようなもの」

現象そのものは生まれたり消えたりする、変化のなかにあります。しかし、それを現出させている真我は永遠の存在です。不生不滅ですので、現象における真我の面に注目すれば、生まれもしなければ死にもしない存在ということになります。一方で現象の変化の面に注目すれば、それは確固たるものではなく、幻のようなものと言えます。

「塵(ちり=物質)ひとつなく、いたるところが清らかである」

仏教の見方によれば、単独の物質というものはありません。まず、「認識されて始めて在る」という事態が生じます。逆に言えば、「認識されないときは無い」のです。寝る前に枕元に置いたスマホは、あなたが眠っている間誰にも認識されなかったら、それは存在しない、のです。

「待ってくれ、そうは言っても起きたとき、それはそのまま枕元にある。俺が寝ている間にもそれはあったはずだ」という声が聞こえてきそうです。でも、それは「あったはず」という主張で「あった」わけではありません。これは私が戯言(ざれごと)を言っているわけではありません。また、仏教だけでなく、量子論も同じことを主張しています。

量子論によれば「世界は関係でできている」とのこと。同名の評論本をカルロ・ロヴェッリという人が書いています。面白い本です。

意識の外に物はありません。意識の内に物はあります。物は「意識された物」なのです。また、個別に存在しているわけではなく、それぞれが関係し合って存在しています。依存し合って全体が切れ目なくある、というのが事実です。そのことを塵、清浄と言っています。

「仏と魔というのは、(対象物に)染まっていない状態(即今)と、(対象物に)染まっている状態(現象)の、2つの状態のことだ」

ここも大いに説明を要する箇所だと思います。

仮に意識を2つに分けて考えていきましょう。即今状態は意識が無時空間に留まっており、対象物に触れていない状態です。サマーデイがそれに当たるのかもしれません。これが対象物に染まっていない状態、これを臨済先生は仏と言っています。

意識が時空間に走り出すと、現象化していきます。これが対象物に染まっている状態、これを臨済先生は魔と表現します。魔なんて言うから、何かおどろおどろしいものをイメージしてしまいますが、私たちの普通の状態です。しかし、この時空間に展開していくものがこんがらがると、妄想が深まり苦悩になるので要注意です。

いずれにしろ、時空間に苦悩は発生します。無時空間にある即今には苦悩はありません。即今から現象界へ意識を無反省に走らせてしまうのが凡夫(未悟)、即今から現象界へ、現象界から即今へ、自由に出入りできるのが覚者です。

また、もうひとつ重要なポイントがあります。臨済先生は仏と魔と、便宜上2つに分けていますが、この2つは本来的には同じものです。どこにも切れ目はありません。それを踏まえた上で、あえて臨済先生は分けています。その点をわかっておかないと、他のセンテンスの部分で矛盾を感じて、首をかしげることになります。

「仏なく衆生なく、過去なく現在もない」

これは無時空間を思えば、簡単に解ける文章です。仏、衆生の空間的差別はない、過去、現在という時間の経過はない(即今はある)。時間の経過がないのだから、時間に依る修証、得失という事態はありえない、ということです。

「即今目前孤明歴歴地(れきれきじ)に聴く者」

「只今即今、ワシの目の前で、独り聡(さと)く、歴然として聴いている者(個我でなく真我・ソレ)」

読み下し文と私訳を並べてみました。

者というのは、この場合、個人ではありません。個人ととらえると、「独り」という言葉と矛盾してしまいます。ざっくり言えば、上記の事態は、「真我が臨済先生を通じて話し、真我が衆僧たちを通じて聴いている」という事態なのです。ただ、臨済先生は覚者ですから、個我はありません。真我そのものです。

聴いている衆僧は未悟ですから、真我でありながら、その自覚が未だなく、個我が色濃く残っている者です。臨済先生は衆僧たちの真我に向かって語りかけています。ですから、もし衆僧が、個我としてこの法話を聴いてしまったら、残念ですが、誤解が生まれます。法話が衆僧たちの真我に響くように、臨済先生は訴えているのです。

真我は独りです。非二元の教えでは、真我のことをワンネスと呼んでいます。また、一なるものという言い方もありますね。皆同じことを指しています。

「現象世界に作用していっても、ソレ自身の性質は現象世界の性質に取って代わられることはない」

無時空間の即今から真我が個我を通じて現象界に作用していきます。真我は独りですが、現象界に作用していく過程で、それは多様な様相を呈していきます。しかし、真我の性質は現象界の多様さに影響されません。

映画のスクリーンが映像に影響されないのと同じです。火事の映像が映されてもスクリーンは燃えることはありません。私たちはこのことを試してみることもできます。

物凄く汚いものを見た後で、美しいものを見ることもできます。もし、影響があるとしたら、それは記憶に基づいています。美しいものに汚い記憶を重ねています。記憶を重ねなければ、「汚い」は即座に「美しい」に変換します。このように真我そのものは不変で、すべてを受容します。ヒンズー教や非二元の教えでは、その性質からソレを愛だとします。

だいたい説明しつくした感がありますので、今回はこの辺で。

また、お会いしましょう。

 

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