【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆10

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回は、水乳に注目してください。

 

①読み下し文

今時の学者は、総(す)べて法を識(し)らず、猶(な)お触鼻羊(そくびよう)の、物に逢著(ほうじゃく)して口裏(くり)に安在(あんざい)するが如し。奴郎弁(ぬろうべん)ぜず、賓主分かたず。

是(こ)の如きの流(たぐい)は、邪心にして道に入り、閙処(にょうしょ)には即ち入る。名づけて真の出家人と為すことを得ず、正に是れ真の俗家人なり。

夫(そ)れ出家というは、須(すべか)らく平常真正の見解を弁得(べんとく)して、仏を弁じ魔を弁じ、真を弁じ偽を弁じ、凡を弁じ聖を弁ずべし。若(も)し是の如く弁得せば、真の出家と名づく。

若し魔仏弁ぜずんば、正に是れ一家を出でて一家に入る。喚(よ)んで造業(ぞうごう)の衆生(しゅじょう)と作(な)す、未だ名づけて真の出家人と為すことを得ず。

祇(た)だ如今(いま)一箇(こ)の仏魔有り、同体にして分かたざること、水乳の合(がっ)するが如きも、鵝王(がおう)は乳を喫す。

明眼(みょうげん)の道流(どうる)の如きは、魔仏倶(とも)に打(だ)す。你(なんじ)若し聖を愛し凡を憎まば、生死海裏に浮沈せん。

 

②私訳

今どきの仏法学者は皆、仏法を知らない。常に鼻先を何かに触れている羊のようで、物をほうばっては口をモゴモゴさせている。奴隷と主人の区別もつかず、主人と客の区別もつかない。

このような輩(やから)は、よこしまな心を抱いてこの道に入ってくる。景気の良い場所には首を突っ込んでくる。これでは真の出家者とは呼べない。正に俗物の見本である。

本当の出家者とは、当たり前で正しい見方を心得ているものだ。仏を見分け魔を見分け、真を見分け偽を見分け、凡を見分け聖を見分けるものだ。そのようであるなら、真の出家者と呼べよう。

もし、魔と仏の見分けもつかないようなら、家から家へと渡り歩く流浪の民だ。このような輩を、罪作りな衆生と呼ぶ。それではとうてい出家者とは言えぬ。

もし、ここに仏と魔が一体となったバケモノがいるとしよう。このバケモノは水と乳の混合物のようなものだ。鵝王のような超能力者なら乳だけを吞むだろう。しかし、眼の明いた出家者なら、両方いっぺんに平らげるのだ。

諸君がもし聖だけ愛し凡を憎んだりしたら、生死の海に漂うことになるぞ!

 

現場検証及び解説

 

臨済先生は若い頃から秀才で、仏教の学問もかなりされた方のようです。しかし、覚醒後は学者嫌い、学問嫌いになられたようで、この段では糞みそに学者を貶(けな)しています。

まあ、それはそれでいいと思います。どんなに口汚く罵(ののし)ろうと、それが臨済先生の表現の仕方ですから、かまいません。格好ばかりつけた中身のない、学識をひけらかす衒学者(げんがくしゃ)が想像されます。

しかし、前半は「区別すること」を重んじているように読めるのに、結論は「区別するな」丸吞みにせよ、と言われているようで、困ってしまいます。これをうまく解釈できるかどうか、大変心もとないですが、なんとかやってみようと思います。

 

禅仏教の根本は即今です。何度も言うように、即今は無時空間に垂直に立つ何か、です。無時空間ですから、そこに一切の思考はありません。一切の差別はありません。したがって、仏と魔、真と偽、凡と聖の区別もありません。もっと言えば、出家人と俗家人の区別さえありません。

ですので、前半の臨済先生の区別は、学僧をエセ学者から守る方便として言っている、と解します。決して、法の根本を説く意味で、区別を強調しているわけではないのです。区別しないのが禅仏教です。

エセ学者は「仏、魔、真、偽、凡、聖」の定義はおそらく知っています。問えば記憶を参照して、思い出してそれに答えるでしょう。しかし、実際の日常生活の中で、どのような行為が「仏、魔、真、偽、凡、聖」なのかは言えません。暗記した定義はスラスラ言えても、生活の中でその知恵を応用することはできないのです。仏教を知識としては知っていても、仏教を行為することはないのです。これが俗家人です。そのことを臨済先生は指摘しています。

それに対して出家人は、仏教を生活の中で生きています。仏教を行為することができています。それが本当に「仏、魔、真、偽、凡、聖」の区別を知っている、ということだ。前半の文章で臨済先生が主張するのはこのことです。

しかし、一番最初に申し上げたように、禅仏教の根本は即今=無時空間=「区別はない」ということです。臨済先生は区別を言い過ぎたことに気がとがめたのでしょう。最後に「区別はない」ことを強調します。

水乳のたとえは面白いですね。

水が即今(無時空間)、乳が現象(時空間)と見ると、わかりやすくなります。

普段私たちは乳を飲んでいる、と思っています。その通りなのですが、そこに水が含まれていることには自覚がないのです。それと同じように、普段の私たちの何気ない光景に、即今(無時空間)がないことは、ありません。しかし、私たちには即今の自覚がなく、現象(時空間)の方にばかり気を取られています。即今を自覚し、それを保つ工夫が瞑想修行のキモです。

「聖だけ愛し凡を憎む」

現象界に深く関わると、当然「聖を愛し凡を憎む」「真を愛し偽を憎む」「仏を愛し魔を憎む」ことが起こります。それは普通のことです。しかし、それらに執着すると、苦しむことになります。なぜなら、現象界のものは変化するからです。善きものを掴んでも、手からすり抜けていってしまいます。悪いことは避けたくとも、容赦なくやってきます。

そういった苦から逃れる、たったひとつのポイントが即今です。即今をできるだけ保ちながら、善きものを掴まず、悪いことも受容する態度が養われれば、人生は穏やかに、たやすくなるのでしょう。

明眼の修行僧ならずとも、私たちは否応なく、水乳を飲んでいます。必要なのは、水に気づくことだけです。

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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