【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆8

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回は、「思考に気づけていない」状態はヤバイ、です。

 

①読み下し文

道流、山僧が説法は、什麼(なん)の法をか説く。心地の法を説く。

便ち能(よ)く凡に入り聖(しょう)に入り、浄に入り穢(え)に入り、真に入り俗に入る。

要且(ようか)つ是れ你(なんじ)が真俗凡聖の能く一切の真俗凡聖の与(ため)に名字を安著(あんじゃく)するにあらず。真俗凡聖は此の人の与に名字を安著し得ず。

道流、把得(はとく)して便ち用いて、更に名字に著(じゃく)せざる、之を号して玄旨(げんし)と為す。

山僧が説法は、天下の人と別なり。祇(た)だ箇(こ)の文殊普賢(もんじゅふげん)有って、目前に出で来たって、各(おのおの)一身を現じて法を問うが如きは、纔(わず)かに和尚に咨(もう)すと道(い)わば、我れ早く弁じ了(おわ)る。

老僧穏坐(おんざ)、更に道流有って、来たって相見(しょうけん)する時、我れ尽(ことごと)く弁じ了る。

何を以ってか此(かく)の如くなる。祇だ我が見処(けんじょ)の別にして、外には凡聖を取らず、内には根本に住せず、見徹(けんてつ)して更に疑謬(ぎびゅう)せざるが為なり。

 

②私訳

諸君、ワシの法は何を説いていると思うか。ワシは心の故郷(ふるさと)の法を説いているのだ。

ソレ(心の故郷)は凡にも通じ聖にも通じ、浄にも通じ穢のも通じ、真にも通じ俗にも通じる。

これは諸君が考えるような真俗凡聖ではない。諸君の真俗凡聖は、言葉で区切ったものだ。

真俗凡聖のような言葉で、この人(真我)は言い表せないのだ。

諸君、見て取って用いて、言葉には囚われぬ、これが奥義なのだ。

ワシの説く法は、世間の法とは別のものだ。

文殊・普賢菩薩が目前に来て、各々身を現し「和尚に法を問う」と言った刹那、ワシはもう説き終わっている。

諸君と会ったとたんに、ワシはすべてを説き終わっている。

なぜこのような具合なのか。

ワシの見方は諸君とは別の所にある。外(現象界)には凡聖の違いを見ず、内(即今)には腰を据えない。しっかり見極めて、疑わないからだ。

 

現場検証及び解説

 

臨済先生、いろいろと言っていますが、結局は不立文字を言っているのだと思います。何度もこのテキストで語られるテーマです。ちょっと言い過ぎかなあ、とも思いますが、それだけ文字による誤った仏教の理解が横行していたのでしょう。

不立文字を私なりに理解した結果が「即今は無時空間。言葉は時空間で有効なものなので、無時空間のことは原理的に言えないのだ」というものです。言葉は時空間を渡って意味が生じます。

言葉を発するときは、誰かにわかってもらいたいから、です。相手を想定して言葉を発します。また、言葉というものは相手を想定して、その相手に伝えたいという欲望の先に、紡がれていくものです。そして、表現の場は時間と空間です。即今を表した言葉、「喝!」でさえ時間を要します。ただ、意味作用はないに等しい表現です。

仮に私があなたに向かって「ば!」と言ったとします。あなたは訳が分からず、キョトンとするでしょう。しかし、センテンスが時空を渡り、「ば・か・や・ろ・う」となると、あなたはその意味を受け取ります。意味を受け取るということはすなわち、思考を起こすということです。そして、たいていの場合、思考に引き続き感情が起こります。

この場合は不愉快な感情が起こることでしょう。

このように、言葉は時空間の道具です。無時空間の即今を言い表すことが不可能です。なので、臨済先生は「真俗凡聖のような言葉で、この人(真我)は言い表せないのだ」と言います。真我は即今=仏性=本来の面目のことです。

しかし、即今のままだと、人間関係はもてません。即今を守ったまま居ようとすると、一切の人間関係を絶って、山奥に籠って孤独に生きるより仕方がありません。それでは師家は務まりません。では、どうするか? 即今を出て、はたらきます。

「見て取って用いて、言葉には囚われぬ」技、で修行者を教化するのです。もう少し平たく言えば、「パッと見で判断し、修行者にはたらきかけ、済んだらパッと忘れちゃう」というやり方です。ここでの判断は、思考が関与したものではありません。また、「パッと忘れる」ですから、後でグズグズ「ああしとけば良かった・・・」などの後悔もありません。一切滞りなく、爽やかな印象があるのは、思考が絡まぬ行動だからです。

これを真似しようとしても、なかなか難しいです。なぜなら、未悟の人は行動に常に思考が絡んでくるからです。「いや、私は思考などしていない」というご意見が聞こえてきそうです。私も実際にそのような抗議(?)を何度も受けました。しかし、それは違うのです。

それは「思考がない」のではなく「思考に気づけていない」状態です。ですから、瞑想修行を始めて、まず一番最初に思うのが「え、私って、こんなにいろんなこと考えてたんだ!」ということです。それが最初の一歩です。

普通の人は思考まみれの状態で、立ち止まってそれをジッと観察することなど、滅多にありません。そのような状態は、心理的に不健康で、こんがらがると結構ヤバイことになります。

心を観察する時間はすべての人が持つべきだと、私は思います。これは、うつ病になって大変苦しんだ私自身の経験から、そう申し上げるのです。心を甘くみてはいけません。

文殊・普賢菩薩云々は、「沈黙の値千金」ということでしょうか。沈黙を差し出し、説き終わっている、というのもなんだか矛盾していますが、こういう奇妙な絵柄というか、図式というのか、を禅者は好みます。舞台装置を大仰に構え、ものを言いたがります。私はいつも心の中で、「不立文字と違うんかい」と突っ込みを入れています。しかし、あくまでも、心の中で、です。私も多少なりとも、不立文字ですから(笑)。

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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