【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆4

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回は、修行者にとって「難解だけど重要なこと」が語られます。

 

①読み下し文

道流(どうる)、心法(しんぽう)は形無くして、十方に通貫す。眼(まなこ)に在っては見(けん)と曰(い)い、耳に在っては聞(もん)と曰い、鼻に在っては香(か)を齅(か)ぎ、口に在っては談論し、手に在っては執捉(しっそく)し、足に在っては運奔(うんぽん)す。本(も)と是れ一精明(いちせいめい)、分れて六和合(ろくわごう)と為(な)る。一心既に無なれば、随処に解脱す。

山僧が与麼(かく)説くは、意は什麼(いずれ)の処にか在る。祇(た)だ道流が一切馳求(ちぐ)の心歇(や)むこと能(あた)わずして、他(か)の古人の閑機境(かんききょう)に上(のぼ)るが為(ため)なり。

道流、山僧が見処を取らば、報化仏頭(ほうけぶっとう)を坐断し、十地(じゅうじ)の満心(まんしん)は猶(な)お客作児(かくさじ)の如く、等妙(とうみょう)の二覚(にかく)は担枷鎖(たんかさ)の漢、羅漢辟支(らかんびゃくし)は猶お厠穢(しえ)の如く、菩提涅槃(ぼだいねはん)は繋驢橛(けろけつ)の如し。

何を以ってか此(かく)の如くなる。祇だ道流が三祇劫空(さんぎごっくう)に達せざるが為に、所以(ゆえ)に此の障礙(しょうげ)有り。

若し是れ真正の道人(どうにん)ならば、終(つい)に是(かく)の如くならず。但(た)だ能(よ)く縁に随って旧業を消し、任運(にんうん)に衣装を著(つ)けて、行かんと要(ほっ)すれば即ち行き、坐せんと要すれば即ち坐し、一念心の仏果を希求(きぐ)する無し。何に縁(よ)ってか此の如くなる。古人云く、若し作業(さごう)して仏を求めんと欲すれば、仏は是れ生死の大兆(だいちょう)なり、と。

 

②私訳

諸君、心(認識の光)は形のないもので、あらゆる方面に向かってはたらくのだ。

眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけば嗅ぎ、口にはたらけば話し、手にはたらけばつかみ、足にはたらけば歩く。これらの根源はひとつの光で、それが六根を通じてはたらくのだ。このひとつの心は、無(対象化できないもの)であるので、どんな場面にあっても(迷いからの)解脱しているのである。

ワシがこのように説く意図が、どこにあると思うか。それは、諸君が求める心を止めえず、古人の言葉に囚われるからだ。諸君、ワシの見地を得たならば、報身仏、化身仏の頭を断ち切る勢い、十地の修行達成者も奴隷同然、等覚・妙覚の悟りを得た者は牢獄の囚人、羅漢・辟支仏とて便所の汚物、菩提・涅槃はロバを繋ぐ棒杭だ。

なぜこのようなざまなのか。それは永遠の空に達しないからだ。そのためこのつまづきがある。

これが真の求道者なら、このようなことはない。ただ、事あるごとに【条件付け】を消し、事の流れにしたがって役割を担い、行こうと思えば行き、坐ろうと思えば坐る。即今を保ち、結果を求めないことだ。どうしてそうなのか。

古人も言っている。「もし、意図して仏を求めたりしたら、その仏は生死流転の大きな兆(きざ)しになろう」と。

 

現場検証及び解説

 

私たちは普通こう考えています。「まず肉体があり、肉体が精神というものを発動させている。その中心は脳だ」また、科学の見解はこうです。「物質の組み合わせで、生命が誕生した」私たちは現代文明の中で、こうした前提を受け入れ、その上に社会が成り立っています。

しかし、禅仏教はそう考えてはいません。「精神(生命エネルギーのようなもの)が先にあり、それが肉体を通じて認識作用を起こしている」とします。科学は未だに「生命の誕生の秘密」を解明しえていません。それはおそらく、生命が対象化しえないもの、であるからです。私たちは私たちの真の姿(本来の面目=仏性)を対象化しえないのです。それは鏡が鏡を映せないのと同じです。眼は眼そのものを直接見ることはできません。

それと同じように、私たちは私たち自身を発見することは不可能なのです。したがって、科学はそれを発見できません。覚者はソレ(真我)と一体化することにより、ソレを知ったのです。私は覚者ではありませんので、それがどのような状態なのかは、お伝えできません。また、覚者が口をそろえて言うには「言葉では表現できない」らしいのです(笑)。お手上げですね。

臨済先生はそれを何とか学僧たちにわからせようと、苦心している様子です。

「諸君が求める心を止めえず、古人の言葉に囚われる」から悟れないのだ、と言います。学僧たちは「悟りたいから学僧になった」のでしょう。それなのに、「悟りを求めるな。求める心を止めなさい」と言う。これは殺生な話です。また、悟りたいのだから、先人に学ぼうとするのは当然です。しかし、それもダメである、と。言葉ではない、不立文字。禅仏教特有の考えです。

報身仏以下の文章は、従来の仏教の「善きもの」を片っ端から否定しています。これも不立文字です。

では、どうすればいいのか、そのあたりを禅仏教はあまり言いません。また、このテキストは臨済先生の法話を後世のものが記録し編纂したものです。現場に居れば言葉だけでは感じられないような迫力、説得力、励ましがあったのでしょう。ここは千年後の私たちが、読解力を駆使して臨済先生の息吹を感じるようにいたしましょう。

「但(た)だ能(よ)く縁に随って旧業を消し」を「事あるごとに【条件付け】を消し」と私流に訳してみました。岩波文庫の入矢先生のように旧業を宿業と訳すと、宿業は「前世からの因縁」という意味ですから、ちょっと話が大掛かりになってしまいます。

私はもっと身近なこと、思念をどう扱うか、ということについての示唆だと読みました。日常生活のなかで、いろいろな思念が生まれます。必要な思念のありますし、不必要な思念もあります。禅で良しとされるのは、思念を長引かせないということです。パッと使ってパッと捨てる。これはOKです。

ティッシュを取って、鼻かんで、ゴミ箱にポイッ、これはいいわけです。しかし、往々にして思念は長引くこともまた有りがちです。一番ポップなのは「根に持つ」というやつです。鼻かんだティッシュを一日中持ち歩いているようで、はなはだみっともない行為ですが、本人は気づかないことが多いのです。

臨済先生は、そういった思念に気づき(気づかないと処理できません)、すぐさま消していけ、と言っています。思念の型、思考癖をヒンズー教では【条件付け】と言います。その言葉を当ててみました。

「行こうと思えば行き、坐ろうと思えば坐る」

これは一見、好きなように振舞えばいいのだ、と言っているように読めますが、そうではありません。私たちの日常を心理面から観察すると、常に思考が行動に口を挟んできます。朝仕事に出かけようとする場面を思い出してみてください。ガギを忘れて取りに戻ったり、重要な書類がカバンに入っているか確認したり、子どものこと、奥さんのこと、職場のことが気になり、うわの空になり、ズボンのチャックが開いたまま出勤したりします。

思考が渦巻いていると、行動がぎこちなくなります。思考が少なくなり、心に安定感が出てくると、「行こうと思えば行き、坐ろうと思えば坐る」のように、スムーズに行動できるようになります。要点は無駄な思考の減少です。必要な思考はいいのです。思考に気づき続けることです。思考は放っておけば自然に消えるものです。掴んだその手を放してください。

困ったことに「思考を減らそう」と努力すると、逆効果になります。なぜなら、その努力も思考だからです。ここは微妙なところですので、わかりにくいかもしれませんが、このようなポイントがあると知っておいてください。

「結果を求めないことだ」「もし、意図して仏を求めたりしたら、その仏は生死流転の大きな兆(きざ)しになろう」というのは、その辺の消息を言っています。学僧たちは「仏果を求めてこの道に入ったのに、どうして臨済先生はこのようにおっしゃるのだろう?」と不思議に思ったことでしょう。千年後の私たちにも、そう感じられます。これは法を学ぶ際、大変わかりにくいポイントです。

世俗的な目標なら「努力して達成する」という方程式がある程度成り立ちます。これは世俗的価値が時空間にあるせいです。仏教的な価値は無時空間(即今=仏性=本来の面目)にあります。なので、通常の「努力して達成する」という方程式が成り立たない。さらに言えば、「方法をもってする」いうアプローチさえ間違っている、ということです。

そう言われると「じゃあ、どうやって?」と問いたくなります。私もそうです。しかし、その問いを発する者(おそらく、自我)の消滅こそ仏教の目的です。

方法はない、道はある。その道は各自が見つけるしかない。そういうことでしょうか。

また、このようにイメージすることも可能です。時空間を一枚の紙で表すとします。その紙に垂直に刺さる軸、それが即今=仏性=本来の面目です。時空間の力学に随って紙の表面を探し回っても、垂直軸は見つかりません。時空間の次元にそれは存在していないのです。時空間の次元にないものを、時空間のもの、つまり努力、言葉、論理で達しようとしても無理、ということです。

臨済先生は難解だけど、重要なことをおっしゃっていると、感じました。私の説明で、皆さんに伝わりましたでしょうか。余計わかんなくなってたりして(笑)。やっぱり、文字を重ねるほど、ソレから外れていくのかなあ。

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Copyright© 瞑想修行の道しるべ , 2023 All Rights Reserved.