【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆3

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回は、実はこの世って地獄なんです、という話。

 

①読み下し文

大徳、三界安きこと無く、猶(な)お火宅の如し。此(これ)は是れ你(なんじ)が久しく停住する処にあらず。無常の殺鬼、一刹那(せつな)の間に、貴賤老少を揀(えら)ばず。你は祖仏と別ならざらんと要(ほっ)せば、但(た)だ外に求むること莫れ。你が一念心上の清浄光(しょうじょうこう)は、是れ你が屋裏の法身仏(ほっしんぶつ)なり。你が一念心上の無分別光は、是れ你が屋裏の報身仏(ほうしんぶつ)なり。你が一念心上の無差別光は、是れ你が屋裏の化身仏(けしんぶつ)なり。

此(こ)の三種の身は、是れ你即今目前聴法底の人なり。祇(た)だ外に向かって馳求(ちぐ)せざるが為に、此の功用(こうゆう)有り。経論家に拠(よ)らば、三種の身を取って極則(ごくそく)と為(な)す。

山僧が見処に約すれば、然らず。此の三種の身は是れ名言(みょうごん)にして、亦た是れ三種の依(え)なり。古人云く、身は義に依って立て、土は体に拠って論ずと。法性の身、法性の土、明らかに知んぬ、是れ光影(こうよう)なることを。

大徳、你且(しばら)く光影を弄(ろう)する底の人を識取せよ。是れ諸仏の本源にして、一切処是れ道流(どうる)が帰舎の処なり。是れ你が四大色身は、説法聴法する解(あた)わず。脾胃肝胆(ひいかんたん)は、説法聴法する解わず。虚空は説法聴法する解わず。是れ什麼(なに)ものか説法聴法を解(よ)くす。是れ你目前歴歴底(れきれきてい)にして、一箇の形段(ぎょうだん)勿(な)くして孤明(こめい)なる、是れ這箇(しゃこ)、説法聴法を解くす。若し是(かく)の如く見得すれば、便ち祖仏と別ならず。

但(およ)そ一切時中、更に間断莫(な)く、触目(そくもく)皆な是(ぜ)なり。祇(た)だ情生ずれば智隔たり、想変ずれば体殊(こと)なるが為に、所以(ゆえ)に三界に輪廻して、種種の苦を受く。

若し山僧が見処に約すれば、甚深(じんじん)ならざるは無く、解脱せざるは無し。

 

②私訳

諸君、この迷いの世界(欲界・色界・無色界)は楽ではない。まるで、火事の家に住むようなものだ。ここは、諸君が長居する場所ではない。死神は一刻一刻、貴賤老少を選ばず仕事をしているのだ。

祖仏と等しくありたいなら、ただ、外に向かって求めることをするな。

諸君の心に通じている清らかな光は、身の内の法身仏なのだ。

諸君の心に通じている分け隔てのない光は、身の内の報身仏なのだ。

諸君の心に通じている好き嫌いのない光は、身の内の化身仏なのだ。

この三種類のからだとは、今ワシの目の前で法を聴いている者(個我ではなく、真我)のことだ。

心が外に求めて駆けださないため、この素晴らしい性質が保てるのだ。

経典の学者は、この三種のからだを仏教の究極の道理とする。ワシの見立てによれば、それは違う。この三種のからだは言葉にすぎず、仮の名前なのだ。

経典には「仏身は教義に依って立ち、仏国土はその体制に依って論ず」とある。しかし、仏身とか仏国土などというものは、明らかに光の影にすぎない。

諸君、その光と影を使う者(真我)を看て取りなさい。それが諸仏の根源であり、諸君が帰る場所なのだ。

諸君の肉体は、法を説くことも、法を聴くこともできない。内臓も法を説くことも、法を聴くこともできない。空気も法を説くことも、法を聴くこともできない。では、一体何が法を説き、法を聴くのか。それは、諸君の目前に歴然としていて、一個の肉体ではなく、独り(ワンネス)輝くソレ(真我)、が法を説き、法を聴いているのだ。

もし、そのことがわかったなら、諸君は祖仏と何ら変わることがない。四六時中、途切れなく、六根に触れるものは皆、ソレ(真我の現れ)なのだ。ただ、欲が起これば仏智から遠ざかり、思念が起こるにつれ様子が変化する。それゆえに、迷いの世界(欲界・色界・無色界)を流転し、数々の苦しみを受けることになる。

つまり、ワシの見立てによれば、深遠ならざるものなどなく、解脱しないものもいないのだ。

 

現場検証及び解説

 

臨済先生は青年期にお経を大変勉強された方なので、当然その知識も豊富に持っておられます。この段ではその知識が垣間見られ、それと同時にその否定(不立文字)がクローズアップされています。

禅仏教の核心は、即今=仏性=本来の面目です。それは無時空間の存在なので、言葉は届かず、体験するより仕方ありません。私の体験はまだまだ浅いので、ハッキリしたことを申し上げられないのが残念ですが、即今体験は観念的なものではなく感覚的なものです。うまく言語表現できないものです。あえて言えば「いい感じ」、覚者は至福などと言います。わずかな体験と本で読んだ知識から類推するに、どうもそのようなことのようです。

坐禅、瞑想などの体験があり、即今が何かを知って、なおかつ心の観察がしっかりとできていれば、臨済先生の言葉は何らかの効果があるでしょう。また、個我を視点(or聴点)に聴くのではなく、個我の背後にある真我を視点に聴くのでないと、誤解が生まれます。皆さんも、どうか心を虚しくして(個我を薄くして)、この話を聴き、吟味していただければと思います。解説を試みます。

 

まず、「迷いの世界は楽ではない」とあります。実際に世間に出てみると、生きていくのはなかなか容易ではありません。競争、批判、怒り、口惜しさ、嫉妬、いじめ等々、うんざりするようなことばかりです。「こんなことしてまで、生きていなくちゃいけないのか?」と疑問が生まれます。

すべての人が成功者に成れるわけではありません。また、成功者ですら、いずれ後から来る者の追撃に怯えることになります。そして究極は、どうせ最後は衰えて死んでしまいます。この世に生きる意味なんてあるのでしょうか? そう考えると、とたんにこの世は地獄の様相を呈してきます。

臨済先生は「この世で生きることは、火事の家に住むようなものだ」と言います。これは掛け値なしにそう言っています。救いはないようなものの言い方です。本当に救いはないのでしょうか。そうではありません。この世をバトルゲームのように、あるいはラットレースのように生きることが地獄なのです。バトルゲームのようでなく、ラットレースのようでなく、生きることを学ぶことが救いです。

それは具体的にどのような生き方なのでしょうか。それは即今に生きるということです。世捨て人のように、世間と関わらずに生きることではありません。世間と関わりながら、その力学に捉われない生き方がそれです。世間の力学とはどんな力学でしょうか。世間の力学とは、自我の拡大を目的とし、その目標に向かって競争する、ということです。

自我の拡大の目安は、成功、お金、地位、権力、人気、社会的評価、異性などのパートナー等々です。これらは一見バラエティに富んでいるように見えますが、すべて自我の拡大を意味しています。自我の拡大は時空間に展開するものです。

まず、時間。「時は金なり」とも言います。時間給って言いますね。自分の時間を売ってお金を稼ぎます。逆にお金があれば、時間を自由に使えます。自我の願いは「時間は自分だけのために使いたい」です。

空間。社会的関係の拡大です。自我のもうひとつの願いは「他人に認められたい」です。しかも多数の人に認められたいのです。ツイッターで呟いて、いいね!がもらえると嬉しいですね。桁違いのいいね!がもらえたりなんかすると、有頂天になって自分が偉くなったような気になります。これは自我が喜んでいるのです。いかに他人(特に好きな人に)に認められるか、いかに広範囲に、多数に影響を及ぼすか、ということが自我にとって重要なことなのです。

有名になりたい、肩書を欲しがる、高い地位につき他に命令したがる、教えたがる、権力をやたらに行使したがる・・・書いていて気持ち悪くなってきますが、これらはすべて自我の欲望です。自我が強い人間が権力をもってしまうと、世界が大変迷惑します。戦争は自我が起こす悲惨の典型です。自我を何とかしない限り、これからも繰り返し戦争は起こります。戦争は自我が、他を自分の思い通りにしたいという願望を、暴力によって成し遂げようとする行為です。

話をまとめると、自我は時空間に自分の影響力を広げようとする。そのためには他の迷惑を顧みずに、そうする。これは人類の悲惨である。そのことを臨済先生は述べておられる、ということです。そして、その悲惨を生きながら回避するたったひとつのポイントを君たちは持っているぞ、と言っています。そのポイントとは即今です。

即今は無時空間に在ることです。自我の拡大と無関係な生き方(の可能性)が、ここにあります。端的にそれを表現すれば、何のことはない「いい感じ」で生きることです。しかし、困ったことに「いい感じ」で生きていると、自我がこう言い始めます。「もっと有益なことをした方がいいんじゃないか?」

その声に耳をかすと「いい感じ」は失われ、時空間の成功物語に参加していくはめになります。世間に生きながら、即今「いい感じ」を生きるのが難しいのはそのせいです。

 

「祖仏と等しくありたいなら、ただ、外に向かって求めることをするな」

この臨済先生の言葉も、即今に在ることの難しさを語っているように思います。即今に在る、即今を保つことは案外難しいのです。即今「いい感じ」で生きていても、欲望がうずうず湧いてきて落ち着かなくなります。そして、欲につられて即今から出て、自ら時空間にその鼻ずらを突っ込んでいってしまいます。それに気づき引き返すことが修行の最も重要なポイントです。

その際に注意してほしいポイントは、上記のような理路からすれば、禁欲は良いことに思えます。しかし、少し我慢してみるのはOKですが、過度の禁欲はNGです。なぜなら禁欲は「欲を抑えたい」という、もうひとつの欲望だからです。大急ぎで言いますが、逆に「欲望肯定、全開!」になったら、それは全然修行とは言えません。

大切なのは、欲を見逃さず、欲を観察し、欲を理解することです。欲を満たすにしろ、欲が消えるにしろ、ハッキリと気づいていることが大切です。また、欲に負けるにしろ、欲に勝つにしろ、それに対して気にかけないことです。結果を気にせずに、継続して欲の観察をしていくことが肝要です。

そう考えていくと、臨済先生の指示は簡単そうで難しいのです。外に求むるな、駆求(ちぐ)するななどと、注意を促すわりには、その方法については何も語りません。ここが禅仏教の物足りないところであり、説明不足なところでもあります。端的で爽やかな印象は魅力的ですが、後世に誤解と無理解が見られるのは、禅仏教が不立文字を強調しすぎたせいのように、私には思われます。

 

法身、報身、化身などと、法華経からの引用がありますが、臨済先生はそれらは言葉に過ぎないと否定します。

「その光と影を使う者(真我)を看て取りなさい。それが諸仏の根源であり、諸君が帰る場所なのだ」とあります。少しイメージが異なりますが、映画を例にして臨済先生の言わんとするところを、私なりに述べてみます。

フィルムがあり、そこに光が当たり、スクリーンに映像が映るという構造です。スクリーン上に映る映像は仮のものです。臨済先生はそれを「依(え)」と表現します。依存してしか存在できないもの、変化するもの、それだけで存在し得ぬもの、です。一巻の映画が終了すれば、登場人物もいなくなります。まさに一巻の終わりです。現実世界もこれと同じです。

肉体、個人、家族、集団、国家・・・これらは皆「仮のもの」です。常に変化していますし、いずれ跡形もなく無くなってしまうものです。本来の私たちは、映画のたとえで言えば「光とスクリーン」です。

映像が「変化するもの」「有限なもの」に対して、「光とスクリーン」は「不変」「無限」「永遠」です。肉体を伴って生きている私たちにとって、自分たちが永遠であるとは、なかなか想像しにくいことです。しかし臨済先生が言うのは、その光こそが「君たちの本来の姿」「君たちの帰る場所」なのだよ、ということです。

もし私たちが、この肉体なのではなく、肉体を通じて世界を照らす光なのだとしたら、そして有限でなく永遠の存在なのだとしたら、そのことをしっかりと実感できたなら、おそらく「生きる基準」が変わってきます。

臨済先生は、そのような私たちの本来の姿を「甚深(じんじん)」(私訳・深遠)と言い、さらに「悟らないものなどいない」と言います。私流にもう少し言い換えれば「そもそも解脱などという問題があるのか?」「何から解脱するつもりなんだい?」ということです。

自我の虚妄を見破れば、それが解脱のスタートです。

長くなりました。ここまで読んだ方、「あんたは偉い!」

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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