【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆1

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回から、示衆(衆僧に示すこと)。臨済の教義の核心に迫ります。

 

①読み下し文

師、晩参(ばんさん)、衆に示して云く、有る時は奪人不奪境(だつにんふだっきょう)、有る時は奪境不奪人、有る時は人境俱奪、有る時は人境俱不奪。

時に僧有り問う、如何なるか是れ奪人不奪境。師云く、煦日(くじつ)発生して地に舖(し)く錦(にしき)、孾孩(ようがい)髪を垂れて白きこと糸の如し。

僧云く、如何なるか是れ奪境不奪人。師云く、王令已(すで)に行われて天下に徧(あまね)し、将軍塞外(さいがい)に煙塵(えんじん)を絶す。

僧云く、如何なるか是れ人境両俱奪。師云く、幷汾絶信(へいふんぜっしん)、独処一方(どくしょいっぽう)。

僧云く、如何なるか是れ人境俱不奪。師云く、王、宝殿に登れば、野老謳歌(やろうおうか)す。

 

②私訳

臨済禅師は夜の説法の際、衆僧たちに次のように言われた。

「ワシは、あるときは奪人不奪境、あるときは奪境不奪人、あるときは人境倶奪、あるときは人境俱不奪である」

一人の僧が問うた。「奪人不奪境とはどういう状態ですか」

臨済「日光が登り、地面は錦を敷くように染まる。赤子の髪は長く、白きこと糸の如く(空間or関係はなく、時間だけが流れている)」

さらに僧が問うた。「奪境不奪人とはどういう状態ですか」

臨済「王の命令はすでに行使され、天下に行き渡っている。国境警備の将軍は煙塵ひとつあげない(空間or関係はあるが、時間は流れていない)」

さらに僧が問うた。「人境両俱奪とはどういう状態ですか」

臨済「幷州、汾州は中央政府との通信を絶ち、独立している(時間は流れず、空間(関係)もない」

さらに僧が問うた。「人境俱不奪とはどういう状態ですか」

臨済「王が宝殿に登れば、野にいる老人が歌いだす(空間or関係があり、時間も流れている)」

 

現場検証及び解説

 

この段は「臨済の四料揀(りょうけん)」と言います。難解なので、いろいろな解釈があるようです。私なりの解釈を以下述べてみたいと思います。

まず、「人」とは何か、「境」とは何かについてお話します。「人」は空間、「境」は時間です。なぜ臨済は空間に「人」という字を当て、なぜ時間に「境」という字を当てたのか不明です。「人」は空間的に意識が展開すると、必然的に人間関係が生まれるからだと想像します。

「境」は土と竟の組み合わせで成り立っています。土はそのまんま柱状の土の塊のこと。土地の神を祭る縁(よすが)です。竟は上から下へ、「刃物、口に一点を加え、人が跪く形」で音楽を表しています。「境」の意味は土地の区切り、あるいは、音楽の切れ目です。ここでは、音楽の意味として使用され、ひいては時間を表したものだとします。

我田引水のように思われるかもしれしえませんが、そうとらえると臨済の言葉とピッタリと符合します。

また、繰り返しになりますが、時空間は意識が現象界に展開する場所のようなものです。禅仏教の根本は即今=仏性=本来の面目です。即今は無時空間のものです。思考停止状態と言い換えてもいいかもしれません。即今(思考停止状態)が禅の基本であり、そこに意識の中心があることを良しとします。

しかし一方で、即今(思考停止状態)のなかにとどまり、意識を一切現象界に展開させずにいることもダメなのだと、禅は言います。それは「はたらきがない」「穴倉禅」と言って、非難の対象になります。

禅はまず、即今=仏性=本来の面目を知れ、つまり、悟れと言います。次に悟ったら(即今を知ったら)、必要に応じて、そこから出て、はたらきなさい、と言います。「はたらき」とは即今を外れ、意識を現象界に展開することです。現象界に展開するということは、意識が時空間に展開するということです。

意識が時空間に展開するパターンが、臨済に言わせると、4パターンあるようです。その4パターンを四料揀としてまとめています。また、注意すべきは、これだけの難解な内容を「説明」ではなく「詩」として表現していることです。また、ダイレクトに語らず、隠喩(いんゆ)、たとえで語っている点です。読む側が注意深く忖度していかないと、誤解するはめに陥ります。

ストレートに語らなかった、レトリック(修飾)を弄しすぎたせいで、後世にわかりにくい内容になっています。そこに注意しましょう。私がくどくこのことを言うのは、誤解による教えが散見されるからです。私自身も誠実に語っているつもりですが、間違った解釈をしている可能性があります。吟味しながら、批判的にお読みください(笑)。

 

●奪人不奪境

奪人ですから、空間(関係)がない状態。かつ不奪境ですから、時間は流れている状態です。まず、お断りしておきますが、このような状態がどのようなものか、私は知りません。臨済はこのような状態を使いこなしていた、と想像します。臨済の答えを検討しましょう。

「日光が登り、地面は錦を敷くように染まる。赤子の髪は長く、白きこと糸の如く」

朝日が登り、地面を美しく染める様子です。早朝の太陽の光は本当に美しく地面を照らすものです。枯葉も金粉を撒(ま)いたように輝きます。つい美しい情景ばかりイメージされてしまいますが、ここで大事なのは、「朝日が登り」という言葉です。「登り」は時間の経過を示しています。美しく地面が染まるのはわずか数分のことでしょう。そのわずかな時間のことを指示しています。

二句目の赤子がまた難解です。白長髪(はくちょうはつ?)の赤ちゃんって、もう、臨済さん、いい加減にしてよ、と思います。しかし、イメージから類推するに、これは人の一生という時間を表しているのだと思います。赤子~老人までの時間を一気にビジュアル的に表現するとなると、白長髪の赤ちゃんになる。なんか、馴染めないキャラではあります(笑)。

奪人、つまり「空間がない」が表現されていないようです。しかし、登場しているのは、朝日と赤ちゃんです。空間に現れる「関係がない」ということで、表現されていると考えます。また、以下に出てきますが、空間に現れる関係は「主従関係」で表すことに、臨済さんは決めているようです。関係といえば「主従関係」、なんか昔っぽいです。

 

●奪境不奪人

「王の命令はすでに行使され、天下に行き渡っている。国境警備の将軍は煙塵ひとつあげない」

奪境だから、時間がない状態。かつ不奪人だから、空間(関係)はある状態です。

王の命令が発せられ、それが民衆にすでに行き渡っている状態です。王と民衆という主従関係で、空間(関係)が表現されています。「すでに」ですから、現在進行形の状態ではなく、現在完了形の状態。無時間です。また、国境警備の将軍もピタリと静止し、無時間を表現しています。読み下し文では「絶」の字で無時間が表現されていると見ます。

 

●人境両俱奪

「幷州、汾州は中央政府との通信を絶ち、独立している」

無時空間の状態です。即今に深々と入り込んだ三昧の状態と言い換えてもいいと思います。これがおそらく、悟りの体験です。これが禅仏教の基本です。この体験があって、他の3パターンも成り立ちます。

ですので、臨済はこの段で、メチャクチャ高度のことを表現していると思われます。

岩波文庫の注によると「幷州、汾州はしばしば謀反して中央政府との連絡を絶った」とあります。このような歴史的事実を踏まえた言葉です。

中央政府と州があり、州が中央政府との通信を絶ってきました。通信は時間を要します。通信がない、つまり時間がないということです。上記したように、空間(関係)は主従関係で表現されています。ここでは、中央政府と州との関係です。その関係がなくなり、州は独立します。無関係=無空間です。

 

●人境俱不奪

「王が宝殿に登れば、野にいる老人が歌いだす」

空間(関係)、時間が共にある状態です。

王が居て、老人(民衆)がいます。ここに主従関係があります。空間(関係)が表現されています。

王が宝殿に登ります。ここは「すでに登っている」ではなく「登りつつある」です。現在完了形ではなく、現在進行形です。老人は歌います。音楽は時間の芸術です。時間が表現されています。また、王が登り、その後、野にいる老人が歌いだす・・・ここにもタイムラグがあり、時間が表現されています。

 

長くなりました。今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。

 

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