【臨済録】やさしい現代語訳・解説 勘弁17
こんにちは!
今回は、旅装束のまま無礼であるぞ臨済和尚。
①読み下し文
径山(きんざん)に五百の衆有り、人の参請(さんしょう)する少(まれ)なり。黄檗(おうばく)、師をして径山に到らしむ。乃ち師に謂(い)って曰く、汝、彼(かしこ)に到って作麼生(そもさん)。師云く、某甲(それがし)、彼に到らば、自(おのずか)ら方便有りと。
師、径山に到るや、装腰(そうよう)にして法堂(はっとう)に上って径山に見(まみ)ゆ。径山、頭(こうべ)を挙げるに方(あた)って、師便ち喝す。径山、口を開かんと擬す。師、払袖(ほっしゅう)して便ち行く。
尋(つ)いで僧有り、径山に問う、這の僧適来什麼(せきらいなん)の言句(ごんく)有ってか、便ち和尚を喝するや。径山云く、這の僧は黄檗の会裡(えり)より来たる。你(なんじ)知らんと要(ほっ)するや、且(しばら)く他(かれ)に問取(もんしゅ)せよと。径山五百の衆、太半分散す。
②私訳
径山の修行寺には500人の僧がいたが、参禅するものはまれであった。
黄檗和尚は臨済を行かせることにし、こう言った。
「お前、径山に行ってどうする?」
臨済「あちらに着いたら、ちゃんと手だてがございます」
臨済は径山に着くと、旅装束のままで法堂に行き、径山和尚に面会した。
和尚が頭を上げるや否や、臨済は喝した。
和尚は何か言おうとした。臨済は袖を払って出ていった。
ある僧が和尚に問うた。「あの僧は先程、どのような問答の末、和尚を喝したのですか」
和尚は言った。
「あの僧は黄檗門下の者だ。訳を知りたければ、直接聞いてみよ」
径山にいた五百人の修行僧の大半が立ち去ってしまった。
現場検証及び解説
径山というのは地名でありながら、そこの住職のことを指します。黄檗山の黄檗和尚、径山の径山和尚ということです。この道場には問題がありました。衆僧の数は多いのに、住職(師家・指導者)に参禅する者が少なかったのです。結論から言えば、住職に問題がありました。
それを知った黄檗が、臨済に行かせることにしました。臨済は道場に着くなり、旅装束のまま径山和尚に面会します。そして、喝を浴びせます。喝は即今を表しています。即今は仏教の根本義です。しかし、住職にもかかわらず、径山和尚は即今を知らなかったと見えます。
臨済が去った後、弟子に訳を問われ、答えることができませんでした。それどころか、「いや、ワシも訳がわからんのだ。訳が知りたければ、直接あの男(臨済)に聞いてくれ」と言い出す始末。これでは、真面目に真理探究を志す僧たちからは、見放されてしまいます。
前回の竜牙和尚といい、今回の径山和尚といい、一応後世に名を残した人ですら、こういったことが起こります。よっぽど気を付けて師を選ばないと、間違ったことを教えられてしまうということでしょうか。しっかりと教えを自分で吟味しつつ、何に依るかを決めていかなくてはいけません。
お釈迦さまは盲信を禁じられました。自分の教えですら、そうしなさいと教えました。「自分でこの教えを、よく考えてから、受け入れてください。教えを鵜吞みにしないように」と。たとえ話として、金を題材にした逸話を話されました。贋金(にせきん)を見破るにはどうするか、です。
「お前たち、ここに金と言われるものがあって、これが真金か贋金か、どうやって見分けますか? 削ってみたり、溶かしてみたり、矯(た)めつ眇(すが)めつしてみるだろう。そのように私の教えを扱ってほしい。私を尊敬するからと言って、決して鵜吞みにしないでほしい」そうお釈迦さまはおっしゃいました。
人はどちらかというと、信じやすい生き物です。そう作られていることで、社会というものが成り立つのかもしれません。そのせいで、尊敬する人、好きな人のいうことは鵜吞みにしがちです。そこを気を付けるべきです。そうでないと、真理への道は切り開けません。
偉い人、好きな人のいうことでも、間違っている可能性があります。逆にいけ好かない奴の言うことでも、真実が潜んでいる可能性があります。「それって本当か?」と自分で吟味するといいのではないでしょうか。
また、吟味もせずに、とにかく他人からの意見は撥(は)ねつける、という態度も困ります。一旦受け入れて吟味し、吟味の結果「そうだな」と納得すれば受け入れる。重要そうだけど「よくわからない」ことは付箋を付けて置いておく。「ダメだ。間違っている」と思うものは捨てる。こんな感じでどうでしょうか。私はそうしています。
上記の二住職は、先輩からの教えを、大した吟味もせずに鵜吞みにした結果、真理に届かないために、弟子を指導できずにいます。このような悲劇を起こさぬよう、注意したいものです。
今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。