【臨済録】やさしい現代語訳・解説 勘弁16
こんにちは!
今回は、伊達や酔狂で禅版打たず?
①読み下し文
師、一尼に問う、善来か悪来か。尼便ち喝す。師、棒を拈じて云く、更に道(い)え、更に道え。尼又喝す。師便ち打つ。
②私訳
臨済がある尼僧に問うた。
「良く来たなあ、悪く来たなあ」
尼僧は喝した。
臨済は棒を取って言った。「さらに言え、さらに言え!」
尼僧は喝した。
臨済は尼僧を打った。
現場検証及び解説
「良く来たなあ、悪く来たなあ」は、語呂合わせのようなもので、特に意味はありません。お馴染みのように、これは即今ゲームの罠です。ここで思念(擬議)を起こせばアウトです。尼僧はそれに気づき、喝を下します。ナイスプレーです。
それでも、尼の一度目の喝は、そこそこだったのかもしれません。臨済は物足りなかったのでしょう。棒を持ち「さらに言え」と迫ります。迫られた尼僧は、窮してさらに喝を繰り出します。しかしこれは、マンネリ化した喝です。臨済はそれを認めず、バツ棒を与えます。
もうひとついきましょう。
①読み下し文
竜牙(りゅうげ)問う、如何なるか是れ祖師西来意。師云く、我が与(ため)に禅版(ぜんぱん)を過(か)し来たれ。牙便ち禅版を過して師に与う。師接得(せっとく)して便ち打つ。牙云く、打つことは即ち打つに任(まか)すも、要且(ようか)つ祖師の意無し。
牙、後に、翠微(すいび)に到って問う、如何なるか是れ祖師西来意。微云く、我が与に蒲団を過し来たれ。牙便ち蒲団を過して翠微に与う。翠微接得して便ち打つ。牙云く、打つことは打つに任すも、要且つ祖師意無し。
牙、住院の後、僧有り、入室請益(にっしつしんえき)して云く、和尚行脚の時、二尊宿に参ずる因縁、環(は)た他(かれ)を肯(うけが)うや。牙云く、肯うことは即ち深く肯うも、要且つ祖師意無し。
②私訳
竜牙が臨済に問うた。「祖師西来の意(仏教の根本義)は何でしょうか」
臨済「ワシのために禅版を持ってこい」
竜牙は禅版を持ってきて、臨済に渡した。
臨済は受け取って、それで竜牙を打った。
竜牙「打つのはよろしいが、祖師西来の意がございませんなあ」
竜牙はその後、翠微のところに行って、さらに問うた。
「祖師西来の意(仏教の根本義)は何でしょうか」
翠微「ワシのために蒲団を持ってこい」
竜牙は蒲団を持ってきて、翠微に渡した。
翠微はそれを受け取って、竜牙を打った。
竜牙「打つのはよろしいが、祖師西来の意がございませんなあ」
竜牙はその後住職になり、ある僧が入室して教えを請うた。
「和尚が行脚されていた頃、この二人の老師の境地を認められたのですか」
竜牙「もちろん認めることは深く認めるのだが、祖師西来の意がないんだよなあ」
現場検証及び解説
これは一見何でもない話のようですが、とんでもないブラックジョークです。少なくとも、私にはそう読めました。
その線で解説を試みます。
臨済は禅版、翠微は蒲団を使っていますが、どちらもその道具で竜牙を打つことによって、即今を示していることに変わりはありません。即今=祖師西来意=仏教の根本義です。何も伊達や酔狂で、禅版や蒲団を持ち出してきているのではありません。また、そこに祖師西来意がないわけではありません。
しかし、竜牙はそれに気づかなかったようです。何かもっと高尚な教え(おそらく、観念的な)を期待していたのでしょう。端的な教えを受け取ることができませんでした。
竜牙はその後、住職になります。仏教の根本義を知らぬまま、よく住職になれたなあと思います。弟子もいたようです。弟子に昔の話を持ち出され、やはりここでも「祖師西来意がなかった」と言います。では、竜牙和尚にとって、祖師西来意とは何だったのでしょう。
それは語られていませんが、学問的、観念的なものだったと想像します。禅は観念的なものをとにかく嫌います。この項も、そのようなコンセプトで編まれたものと思われます。
打たれてハッと気づく、即今以外に仏法はありません。そこに生涯気づくことなく、しかも住職になり弟子までもった。これは悲劇です。また、このような史実を編んだ「臨済録」の編者は、本当に人が悪い。私なら、そっとしておきます。
異論があるかもしれません。私見を述べさせていただきました。
では、今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。