【臨済録】やさしい現代語訳・解説 勘弁14
こんにちは!
今回は、脚を洗う臨済VS.趙州。
①読み下し文
趙州(じょうしゅう)、行脚の時、師に参ず。師の洗脚(せんきゃく)するに遇(あ)う次で、州便ち問う、如何なるか是れ祖師西来意。師云く、恰(あた)かも老僧が洗脚するに値(あ)う。州近前(きんぜん)して聴く勢(せい)を作(な)す。師云く、更に第二杓(しゃく)の悪水を潑(そそ)がんと要(ほっ)す。州便ち下り去る。
②私訳
趙州が行脚の途中で臨済に参じた。臨済が足を洗っているところに行き会い、趙州は問うた。
「如何なるかこれ祖師西来の意」
臨済「今老僧は、ちょうど足を洗っておるところだ」
趙州は近づいて聞き耳を立てた。
臨済「さらにもう一杯、悪水をかれられたいのか」
趙州は立ち去った。
現場検証及び解説
趙州は臨済と同世代の人ですが、年は臨済より下のようです。臨済と同じく禅の一派をなした人ですが、その宗風は棒喝を使わず、平易な言葉で法を説いたようです。臨済と正反対な禅師ですね。
その趙州が、行脚の途中で臨済の元に立ち寄り、問答を仕掛けたという話です。
「如何なるか是れ祖師西来意」とは直訳すると、「達磨大師がインドから中国に来た意図は何ですか?」になります。普通に答えると、仏教を伝えるため、とこうなります。禅ではこの言葉にもうひとつの意味を含ませるのが常です。「仏教の根本義は何ですか?」がそれです。趙州もその意味で臨済に問答を仕掛けています。
それに対する臨済の答えは大変興味深いです。一見、趙州の問いを無視したかのようですが、そうではありません。見事に答えています。それも思念を起こさずに、不立文字の禅らしい返答の仕方です。それを解説するのは、野暮な感じもしますが、説明しないとわからないと思いますので、あえて試みます。
覚醒した者は真我とひとつです。真我は別名、ワンネスとか、一(いつ)なるもの呼ばれます。また、禅では「独」や「孤」などと表現されます。即今、仏性、本来の面目などと、様々に表現されているソレですが、ソレは分割されることのない「ひとつのもの」なのです。
したがって、その「ひとつのもの」と一体化を成し遂げた覚者は、皆同じものです。仏陀と達磨大師と臨済は肉体は違えど、同一と言えます。この理解のもとに、臨済の返答を読むと意味がわかります。意訳すると、次のようになります。
「お前が言う祖師(達磨大師)は、ワシのなかで体現され、ここでこうして脚を洗っている」ということです。また、こうも言えます。「ワシは今こうして脚を洗っている。これこそ即今、仏教の根本義だ。別のものではないぞ」
「今老僧は、ちょうど足を洗っておるところだ」も一応言葉なのですが、説明的にならず、端的に表しているというところが、禅的であるといえます。
しかし、私が説明を加えなければわからないようでは、端的ではありませんね。いや、私が端的さを破壊しているのか(笑)。
趙州は近づいて聞き耳を立てます。「もう一句欲しいなあ」という感じです。臨済は相手にしません。「もう一杯、汚水(脚を洗った水)をぶっかけるぞ」と追い払います。悪水というのは言葉の隠喩です。どこまでも、禅は言葉を嫌います。説明していて、ああ私はとことん禅的ではないなあ、と思います(笑)。
もうひとついきましょう。
①読み下し文
定上座というもの有り、到り参じて問う、如何なるか是れ仏法の大意。師、縄床(じょうしょう)を下り、擒住(きんじゅう)して一掌(いっしゅ)を与えて、便ち托開(たっかい)す。定、佇立(ちょりつ)す。傍僧(ぼうそう)云く、定上座、何ぞ礼拝せざる。定、礼拝するに方(あた)って、忽然(こつねん)として大悟す。
②私訳
定上座という者がいて、臨済に参じて問うた。
「仏法とは何でしょうか」
臨済は坐禅椅子から下り、胸ぐらをつかみ平手打ちをし、突き放した。
定上座は唖然(あぜん)として立ちすくんだ。そばにいた僧が言った。
「定上座、なぜ礼拝なさらぬか」
定上座は礼拝し、その瞬間忽然(こつねん)と悟った。
現場検証及び解説
この項は割と単純な話のように思います。仏法の大意を問うた定上座が、臨済の荒療治でいっぺんに悟った、という話です。臨済の一連の動作は、もちろん即今を表したものです。ただの暴力とは違います。それを定上座は正しく受け取った、ということでしょう。機が熟していたのですね。
「佇立(ちょりつ)す」を「唖然(あぜん)として立ちすくんだ」と訳しましたが、他に似た語で、呆然、茫然、愕然があり、迷いましたが、「思考停止状態になった」に一番近い単語として唖然を選びました。
機を見て手段を講じる手腕がないとできない技です。ただ激しく指導すれば、何とかなっちゃうということでもないでしょう。かと言って、厳しさがないと、またダメですし、なかなか難しいところです。
今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。