【臨済録】やさしい現代語訳・解説 勘弁13

2023/09/09
 

 

こんにちは!

今回は、頑ななエゴイズムについて。

 

①読み下し文

師、僧の来たるを見て、両手を展開す。僧無語。師云く、会(え)すや。云く、不会(ふえ)。師云く、渾崙擘(こんろんつんざ)き、開けず、汝に両文銭(りょうもんせん)を与えん。

 

②私訳

臨済は僧が来るのを見て、両手を広げた。僧は黙っていた。

臨済「わかったか?」

僧「わかりません」

臨済「コンロン山は砕(くだ)けず、だな。交通費はやるから出直してこい」

 

現場検証及び解説

 

両手を広げるという臨済の仕草は、何を表すのでしょうか。即今を表したのかもしれません。あるいは「法はこのようにどこにでもあるぞ」という表現なのかもしれません。いずれにしろ、法を身体的に示した、と捉えられます。ここは深く考える必要はないでしょう。

示された僧は黙っていました。絶句したのかもしれません。思念を激しく働かせたまま、何も言えずに黙っていたのかもしれません。わからなかった様子です。

臨済の僧に対するコメントが興味深いです。コンロン山というのは、僧の頑迷固陋(がんめいころう)な精神状態を表したもの。凡夫は頑なです。融通が利きません。言い張ります。ケンカします。困った人というのは、えてしてこんな感じです。これはみんな、エゴイズムのなせる災いです。

エゴイズムを知り、エゴイズムを乗り越えようと試みがあります。その試みを継続すれば、エゴイズムは影響力を減退します。これが悟りの方向です。人間が丸くなる方向です。

道元禅師は悟りを得た後、言いました。「我、柔軟心(にゅうなんしん)を得たり」と。柔らかな心は悟りの世界に近いのです。逆に頑な心は悟りから遠い、迷いの世界、苦悩の世界です。精神的に苦しい時のことを思い出してみてください。必ずそこに頑なな心があります。それは硬いままの何かではありません。解きほぐすことができるものです。解きほぐしたあとには何も残りません。なぜなら、それは幻想に過ぎないからです。

こう書くと悟りへの道は案外簡単なように見えますが、エゴイズムは執拗(しつよう)で、なおかつ狡猾(こうかつ)です。まるでゾンビのように蘇(よみがえ)ってきます。殺したつもりでも、まだ、そこにいる。それがエゴイズムです。柔らかく解きほぐしたつもりが、しばらくすると形状記憶合金の如く、シャキーンと元通りになっている。根負けしてしまいます。

また、俗なる世界に呼び戻そうと、あの手この手で誘ってきます。「無駄な修行など止めて、人生を楽しもうぜ!」と。全く、自分の中に、もうひとつ別人格が存在するかのようです。こいつとの闘い(ただ、ガチンコ勝負は無効)は困難を極めます。

コンロン山を砕くのは、力ずくでは無理のようです。エゴイズムの性質をよく知ることが重要です。知ることにより、それを乗り越える方法が見えてきます。

禅の文献では頓悟(とんご・いっぺんに悟りを得ること)が語られることが多いです。しかし、これもエゴイズムとの格闘の末、機が熟してのことのように思います。大変劇的で、魅力的な頓悟ですが、それ以前に地道な精進がなかったわけではないはずです。最後の一押しを覚者がになったのであって、そこだけクローズアップして捉えると間違えます。

 

もうひとついきましょう。

 

①読み下し文

大覚到り参ず。師、払子を挙起(こき)す。大覚、坐具を敷く。師、払子を擲下(てきげ)す。大覚、坐具を収めて僧堂に入る。衆僧云く、這の僧是れ和尚の親故(しんこ)なること莫きや。礼拝もせず、又棒をも喫せず。師聞いて覚を喚(よ)ばしむ。覚出づ。師云く、大衆道(い)う、汝未だ長老に参ぜずと。覚、不審(ふしん)と云って、便ち自ら衆に帰す。

 

②私訳

大覚がやってきて、臨済に参じた。

臨済は払子を立てた。大覚は坐具(礼拝用の敷物)を敷いた。臨済は払子を投げ捨てた。大覚は坐具をかたずけ、僧堂に入った。

衆僧たちは「あの僧(大覚)は臨済和尚と親しいのだろうか。礼拝もせず、棒でも打たれなかった」と噂した。

臨済はそれを聞いて、大覚を呼んだ。大覚が来たので臨済は言った。「衆僧たちが、そなたはまだワシに挨拶していないと言っておるぞ」

大覚は「おかしいなあ」と言って、衆僧の群れに帰っていった。

 

現場検証及び解説

 

臨済と大覚の無言の会話です。この会話を傍(はた)で見ていた衆僧にはわからなかった、という話です。

臨済は払子を立てて暗に即今を表しました。大覚はそれに対して、礼拝用の敷物を敷いてみせます。「礼拝しましょうか?」という合図です。臨済は今度は払子を放り出します。「では、これではどうだ?」という感じ。大覚は「それでは、こちらはかたずけましょう」と敷物を元に戻します。臨済と大覚の挨拶は済みました。

それを衆僧が咎(とが)めたわけです。臨済は大覚の挨拶は了解済です。しかし、臨済は衆僧の前で、大覚に何か言わせて、教化したかったのかもしれません。大覚は皆の前に出てきますが、「おかしいなあ(さっき挨拶はしたのに)」と言って戻ってしまいます。臨済の思惑は外れました。衆僧はわからぬままです。

 

今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。

 

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