【臨済録】やさしい現代語訳・解説 勘弁11

2023/09/09
 

 

こんにちは!

今回は、不立文字って何?の巻。

 

①読み下し文

王常侍(おうじょうじ・知事職の人物)、一日、師を訪(おと)う。師と僧堂前に看(まみ)えて、乃ち問う、這の一堂の僧は還(は)た看経(かんきん)するや。師云く、看経せず。侍云く、還た禅を学するや。師云く、禅を学せず。侍云く、経も又看せず、禅も又学せずんば、畢竟(ひっきょう)箇(こ)の什麼(なに)をか作(な)す。師云く、総(そう)に伊(かれ)をして成仏(じょうぶつ)作祖(さそ)し去らしむ。侍云く、金屑(きんせつ)貴(とうと)しと雖(いえど)も、眼(まなこ)に落つれば翳(かげ)と成る、又作麼生。師云く、将(まさ)に為(おも)えり、你(なんじ)は是れ箇の俗漢と。

 

②私訳

王常侍がある日、臨済を訪ねた。臨済と僧堂の前で会い、問うた。

「この寺の僧は経を黙読しますか」

臨済「経は黙読しません」

王常侍「では、禅を学んでいるのですか」

臨済「いえ、禅は学びません」

王常侍「経を黙読せず、禅も学なばないなら、一体何をするんですか」

臨済「彼らを仏に成し、祖師にして、去らしめます」

王常侍「金がいくら貴重だといえ、眼に入ったら災いですからね。そうじゃありませんか?」

臨済「あなたはてっきり俗物だと思ってたのだが(そうではないな)」

 

現場検証及び解説

 

この項もザックリ言えば、不立文字がテーマになっています。看経とは経を黙読することです。要するに読書です。禅を学ぶというのも、言葉を学ぶということです。臨済はそのどちらも否定します。「禅は言葉ではありませんぞ」というアピールです。

「では、何をするのですか」と問われ、「僧たちを仏に成らしめ、祖師と同じくします」と答えます。なるほど、お勉強でなく、実際に仏祖と成らしめる、と。それはわかります。

しかし、そのためにはお経を勉強することも必要だと思いますが、いかがでしょう。こう問えば臨済和尚は喝を下すでしょうか、それとも棒で打つでしょうか。

私は正直言って、この不立文字がテーマが苦手です。そう何度も何度も言い立てることはないではないか、と。自分がいかに無口かを、長々と演説する人のそばにいるようです。何か言う以上、観念的になるのは仕方がないのだから、せめてわかりやすく、懇切丁寧に語るべきではないかと思います。

禅の重要なポイントが即今で、それは言葉では表現できないものだ、というのはわかります。僧たちを仏に成らしめる、というのも、素晴らしいことだと思います。しかし、そのために何をするのか、要するに方法です、は語りたがらないのが禅です。ここに私はストレスを感じるのです。

また、不立文字を誤解して、「法は理解ではない」と思ってしまう人がいることも、困ったものです。そのような人は、摩訶不思議なことが自分に起こることを待っています。法は摩訶不思議なものではありません。明確な理があり、それが直観されれば「なるほど」と思えるものです。

また、「法は理解ではない」と思ってしまう人の、もうひとつのパターンに、法は何か激しい修行をしないと達し得ないものなのだ、と思い込むというのがあります。これも間違いです。こう思う人は、どこかであきらめてしまいます。

不立文字は、修行の最後にわかればいいものです。初期段階で理解したつもりになると、上記のような悲劇が起こります。不立文字は、覚者がわかってさえいればいいことです。修行者に向かって言い立てる必要はありません。法は徹底的に理解すべきものです。読書もそれに接近するために有効な方法です。

科学者のように修行すべきです。科学者は自然を観察します。修行者も瞑想して心を観察します。科学者は他人の論文を読みます。読んだことを実験して検証します。実験して正しければその考えを受け入れます。

修行者も読んだことを、実際に自分の心の観察のなかで確認しなくてはなりません。確認できれば受け入れます。確認できなければ、付箋を付けて置いておきます。そのようにして修行は進んでいきます。すこぶる合理的な技なのです。

読んだことを鵜吞みにするのでは何にもなりませんが、実際の心の観察結果と照らし合わせて確認することで、心の理解が進みます。本当に非難すべきなのは、文字を鵜吞みにする態度なのです。

臨済の「彼らを仏に成し、祖師にして、去らしめます」の言葉を解説します。

原文に成仏とあります。これは「仏でないものが、修行によって、仏に成る」ということではありません。「仏でない凡夫が、仏である覚者になる」と解釈しないでください。何度も言うように、凡夫にも聖なるものは存在しています。それに気づけていないだけです。

将棋を例に話します。金の駒以外は、敵陣に入ると裏返して金に成れます。歩も敵陣に入れば裏返してて金になり、金の動きができるようになります。凡と仏(聖)の関係もそれと同じです。凡の裏側には聖なるものがあります。気づきを得て裏返れば、仏が全面に出ます。肉体をもって存在する限り、仏の裏側には凡があります。一旦仏(聖)の自覚を得た人も、凡にまみれ過ぎて再度裏返り、凡が表になってしまうこともあるようです。

「金がいくら貴重だといえ」の金は文字のことでしょう。文字も災いになることはある、それはそうだと思います。

理解には三段階あるというのが、私の持論です。まず、①書いてあることがわかる、という表層理解。②納得。「なるほど」とわかる。腑に落ちるということ。③会得。理解したことができる。行動に現れる。

禅が非難するのは、①で止まっている人だと思います。②③と理解を深めようとする人には、文字は有効に働きます。②③と理解を進めるためには、情報(文字)と瞑想による心の観察結果との対照が必須です。それをしっかりとやる分には、読んだり書いたりすることは、何の問題のありません。

覚者は口を揃えて「悟りの世界は口では言えない」と言います。究極の境地はそうなのだろうと想像します。しかし、それに至るまでの過程では言葉を使います。禅の問答だって言葉です。繰り返しになりますが、不立文字は最終テーゼです。修行者はどんどん勉強すべきです。注意すべきは瞑想体験結果との対照を怠らないこと。これがないのなら、残念ですが、いくら勉強しても理解は訪れません。

 

今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。

 

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