【臨済録】やさしい現代語訳・解説 勘弁8

2023/09/09
 

 

こんにちは!

今回は、柱と米が小道具です。

 

①読み下し文

師、因(ちな)みに軍営に入って斎(さい)に赴(おもむ)き、門首に員僚(いんりょう)を見る。師、露柱(ろちゅう)を指ざして問う、是れ凡か是れ聖か。員僚無語。師、露柱を打って、直饒道(たといい)い得(う)るも、也(ま)た祇(た)だ是れ箇(こ)の木橛(もくけつ)、と云って便ち入り去る。

 

②私訳

臨済が軍営の昼食に招かれたとき、門のところに将校がいるのを見た。

臨済は柱を指差して言った。「これは凡か聖か」

将校は黙っていた。

臨済は柱をぴしゃりと叩いて、「とはいえこれは、ただの木の柱にすぎん」と言って入っていった。

 

現場検証及び解説

 

臨済が生きた時代は、戦乱の世でもあったらしいです。軍から呼ばれて昼食を共にすることもあったのです。そのときのこと。

門のところに将校がいて、その将校に臨済は問答を仕掛けます。「(この柱は)聖か凡か」と。

最初に、聖と凡について復習しておきます。聖なるものとは、即今=仏性=本来の面目のことです。誰にでもあるソレです。凡夫にももちろんあります。しかし、凡夫はそれに気づきません。凡なるものとは、現象世界のことです。聖なるものが凡なるものとして展開していき、私たちは現象世界を認識します。凡夫も聖者もそこは同じです。聖者は聖と凡を知っています。凡夫は凡しか知らないのです。聖に気づきません。

柱は聖なるものが展開した先にある凡なるものです。聖なるものでありながら凡なるものとしてあります。聖者はそう見ています。凡夫は柱を凡なるものとしてしか見ていません。それだけの違いです。

聖なるものというのは、ザックリ言えば意識のことなのです。柱も結局は「意識されたもの」です。万物が「意識されたもの」です。ですから、万物が聖なるものです。と同時に、「変化する有限のもの」という観点で見れば、凡なるものです。柱であろうが、仏像であろうが、変化するものという観点から見れば、凡なるものなのです。

ですから、柱が聖か凡かと言えば、「どちらでもある」というのが正解です。答えようとすると、思念が働きますから、将校がどちらを答えても臨済はダメ出ししたでしょう。「聖だの凡だの関係ないわ!」とか「喝!」とか答えればOKだったのかもしれません。

しかし、将校は問題の意味すらわからなかった様子です。ここは無語というより、絶句していたのでしょう。

それを見て臨済は「どっちにしろ、これは木の柱だよ」と、むしろ凡夫に受け入れやすい見解を残して、幕内に入っていきます。問答は成立しませんでした。

 

もうひとついきましょう。

 

①読み下し文

師、院主に問う、什麼(いずれ)の処よりか来たる。主云く、州中に黄米(おうまい)を糶(う)り去り来たる。師云く、糶り得尽くすや。主云く、糶り得尽くす。師、杖を以って面前に画一画(かくいっかく)して云く、還(は)た這箇(しゃこ)を糶り得んや。主便ち喝す。師便ち打つ。

典座(てんぞ)至る。師、前話(ぜんな)を挙(こ)す。典座云く、院主は和尚の意を会(え)せず。師云く、你作麼生(なんじそもさん)。典座便ち礼拝す。師亦(ま)た打つ。

 

②私訳

臨済が寺の事務長に聞いた。「どこに行って来たのだ」

事務長「州の都にもち米を売りにいって来ました」

臨済「売り尽くしたか」

事務長「売り尽くしました」

臨済は杖で地面に線を描き、「ところで、これは売れるだろうか」

事務長は喝した。

臨済は事務長を打った。

 

その後、典座(食事係長)と共にいたとき、臨済はその話をした。

典座「事務長はわかっておりません」

臨済「お前ならどうする」

典座は礼拝した。

臨済はやはり典座を打った。

 

現場検証及び解説

 

先に答えを言っておきます。臨済が事務長、典座に与えた棒は、どちらもほめ棒です。安心したところで、解説を試みましょう。

臨済は事務長と世話ばなしをしているように見えます。しかし、やはりここも問答を仕掛けているとみたほうが無難です。もはやおわかりかもしれませんが、「どこに行っていた?」に対する返答は、思念が過去に及びます。したがって、即今を外れます。即今を外れるということは、観念的になるということです。

臨済の不思議な最後の一句を意訳してみましょう。「お前が売り切ったと言っている米は、すでに観念の米だ。観念の米が売れるのなら、この地面に描いた棒線も売れるだろう、どうじゃ」

事務長はここで臨済に試されていることに気づきます。すかさず、喝を発します。「その手には乗るか!」あるいは「即今だ!」ということでしょう。臨済はそれを認める印として一打を浴びせます。「その調子で励め」ということでしょう。

典座はその話を聞いて「事務長はわかってない」と言います。臨済は「お前ならどうする」と問います。典座は礼拝します。これは、臨済の描く棒線を、即今を表したありがたいお示し、ととらえたのです。「売れるだろうか」の言葉に対して礼拝したわけではありません。

臨済はそれも認め、典座に一打浴びせます。これも「その調子で励め」ということです。それぞれの個性に合わせて、指導していたのでしょう。指導者としての臨済が、垣間見える項でした。

 

今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。

 

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