【臨済録】やさしい現代語訳・解説 勘弁8
こんにちは!
今回は、柱と米が小道具です。
①読み下し文
師、因(ちな)みに軍営に入って斎(さい)に赴(おもむ)き、門首に員僚(いんりょう)を見る。師、露柱(ろちゅう)を指ざして問う、是れ凡か是れ聖か。員僚無語。師、露柱を打って、直饒道(たといい)い得(う)るも、也(ま)た祇(た)だ是れ箇(こ)の木橛(もくけつ)、と云って便ち入り去る。
②私訳
臨済が軍営の昼食に招かれたとき、門のところに将校がいるのを見た。
臨済は柱を指差して言った。「これは凡か聖か」
将校は黙っていた。
臨済は柱をぴしゃりと叩いて、「とはいえこれは、ただの木の柱にすぎん」と言って入っていった。
現場検証及び解説
臨済が生きた時代は、戦乱の世でもあったらしいです。軍から呼ばれて昼食を共にすることもあったのです。そのときのこと。
門のところに将校がいて、その将校に臨済は問答を仕掛けます。「(この柱は)聖か凡か」と。
最初に、聖と凡について復習しておきます。聖なるものとは、即今=仏性=本来の面目のことです。誰にでもあるソレです。凡夫にももちろんあります。しかし、凡夫はそれに気づきません。凡なるものとは、現象世界のことです。聖なるものが凡なるものとして展開していき、私たちは現象世界を認識します。凡夫も聖者もそこは同じです。聖者は聖と凡を知っています。凡夫は凡しか知らないのです。聖に気づきません。
柱は聖なるものが展開した先にある凡なるものです。聖なるものでありながら凡なるものとしてあります。聖者はそう見ています。凡夫は柱を凡なるものとしてしか見ていません。それだけの違いです。
聖なるものというのは、ザックリ言えば意識のことなのです。柱も結局は「意識されたもの」です。万物が「意識されたもの」です。ですから、万物が聖なるものです。と同時に、「変化する有限のもの」という観点で見れば、凡なるものです。柱であろうが、仏像であろうが、変化するものという観点から見れば、凡なるものなのです。
ですから、柱が聖か凡かと言えば、「どちらでもある」というのが正解です。答えようとすると、思念が働きますから、将校がどちらを答えても臨済はダメ出ししたでしょう。「聖だの凡だの関係ないわ!」とか「喝!」とか答えればOKだったのかもしれません。
しかし、将校は問題の意味すらわからなかった様子です。ここは無語というより、絶句していたのでしょう。
それを見て臨済は「どっちにしろ、これは木の柱だよ」と、むしろ凡夫に受け入れやすい見解を残して、幕内に入っていきます。問答は成立しませんでした。
もうひとついきましょう。
①読み下し文
師、院主に問う、什麼(いずれ)の処よりか来たる。主云く、州中に黄米(おうまい)を糶(う)り去り来たる。師云く、糶り得尽くすや。主云く、糶り得尽くす。師、杖を以って面前に画一画(かくいっかく)して云く、還(は)た這箇(しゃこ)を糶り得んや。主便ち喝す。師便ち打つ。
典座(てんぞ)至る。師、前話(ぜんな)を挙(こ)す。典座云く、院主は和尚の意を会(え)せず。師云く、你作麼生(なんじそもさん)。典座便ち礼拝す。師亦(ま)た打つ。
②私訳
臨済が寺の事務長に聞いた。「どこに行って来たのだ」
事務長「州の都にもち米を売りにいって来ました」
臨済「売り尽くしたか」
事務長「売り尽くしました」
臨済は杖で地面に線を描き、「ところで、これは売れるだろうか」
事務長は喝した。
臨済は事務長を打った。
その後、典座(食事係長)と共にいたとき、臨済はその話をした。
典座「事務長はわかっておりません」
臨済「お前ならどうする」
典座は礼拝した。
臨済はやはり典座を打った。
現場検証及び解説
先に答えを言っておきます。臨済が事務長、典座に与えた棒は、どちらもほめ棒です。安心したところで、解説を試みましょう。
臨済は事務長と世話ばなしをしているように見えます。しかし、やはりここも問答を仕掛けているとみたほうが無難です。もはやおわかりかもしれませんが、「どこに行っていた?」に対する返答は、思念が過去に及びます。したがって、即今を外れます。即今を外れるということは、観念的になるということです。
臨済の不思議な最後の一句を意訳してみましょう。「お前が売り切ったと言っている米は、すでに観念の米だ。観念の米が売れるのなら、この地面に描いた棒線も売れるだろう、どうじゃ」
事務長はここで臨済に試されていることに気づきます。すかさず、喝を発します。「その手には乗るか!」あるいは「即今だ!」ということでしょう。臨済はそれを認める印として一打を浴びせます。「その調子で励め」ということでしょう。
典座はその話を聞いて「事務長はわかってない」と言います。臨済は「お前ならどうする」と問います。典座は礼拝します。これは、臨済の描く棒線を、即今を表したありがたいお示し、ととらえたのです。「売れるだろうか」の言葉に対して礼拝したわけではありません。
臨済はそれも認め、典座に一打浴びせます。これも「その調子で励め」ということです。それぞれの個性に合わせて、指導していたのでしょう。指導者としての臨済が、垣間見える項でした。
今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。