【臨済録】やさしい現代語訳・解説 勘弁4

2023/09/09
 

 

こんにちは!

今回は、凡と聖がテーマです。

 

①読み下し文

師、一日、河陽(かよう)・木塔(もくとう)の長老と同(とも)に僧堂の地炉(じろ)の内に在って坐す。因(ちな)みに説く、普化(ふけ)は毎日街市(がいし)に在って、掣風掣顚(せっぷうせってん)す。是れ凡か是れ聖かを知他(しら)んや。言猶(な)お未だ了(おわ)らざるに、普化入り来たる。師便ち問う、汝は是れ凡か是れ聖か。普化云く、汝且(しばら)く道(い)え、我れは是れ凡か是れ聖か。師便ち喝す。普化、手を以って指ざして云く、河陽は新婦子(しんぷす)、木塔は老婆禅、臨済は小厮児(しょうしじ)、却って一隻眼(いっせきげん)を具す。師云く、這の賊。普化、賊賊と云って、便ち出で去る。

 

②私訳

臨済はある日、河陽・木塔の二長老と僧堂の囲炉裏を囲んで座っていた。

臨済は言った。「普化は毎日街で気違いじみた振る舞いをしています。あの者は凡なのか聖なのか、どちらでしょうか」

言い終わらぬうちに、普化がその場にやってきた。

臨済は問うた。「そなたは凡か聖か」

普化「そなたが言え、我は凡か聖か」

臨済は喝した。

普化は一人一人指差しながら言った。

「河陽は新妻禅、木塔は老婆禅。臨済は小僧だが、見る目はあるな」

臨済「この盗賊め!(他人の境地を荒らす奴め)」

普化は「盗賊、盗賊!」と言って出ていった。

 

現場検証及び解説

 

まず、禅における聖と凡について復習しておきましょう。重要なことなので、繰り返します。聖とは仏性=即今=本来の面目のことです。あらゆる生き物にソレはあります。一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)です。

では、凡とは何でしょうか。「即今を外れ、現象世界に触れること」です。

この項を「凡=凡人」「聖=聖人」と解釈すると、微妙に誤解してしまうことになります。なぜなら、聖のない凡人はいませんし、凡の世界に全く触れない聖人もいないからです。ただ、聖人の凡に触れる場合の態度は、凡人のそれとは違います。

凡人は現象世界に深くのめり込み、それに引きずりまわされます。「思わず感情的になってしまう」「有頂天になってはしゃぎすぎる」「嫌な思いをして、それが頭から離れない」「ちょっとしたことにこだわってしまう」などなどです。

聖人は凡人と同じく、現象世界と関わります。肉体をもって生きている以上、そこは同じです。しかし、凡人と違うのは、現象世界に深くのめり込まない、それに引きずり回されないのです。「感情は起こるが、長引かない」パッと怒って、次の瞬間笑っている、そんな感じです。「喜びはあるが、それを継続させようとか、もう一度味わいたいとか、そのような意図がない」「嫌な思いは起こるが、すぐに忘れる」「こだわりがない」こんな感じでしょうか。私は聖人ではありませんので、ここは理解したところを想像で言っています。

まとめましょう。凡人にも例外なく、聖なるものがあります。しかし、凡人にはその自覚がありません。凡人は凡なる世界(時空間、現象世界)に深く迷い込み、悩んだり苦しんだり他人迷惑をかけてしまったりします。つかの間、聖なるものを知ることはありますが、すぐに即今から外れて迷いの世界(思考の世界)に入っていきます。

聖なるものへの興味と理解がある人も、即今を保とうとして即今を外れていってしまいます。わかっちゃいるけどやめられないのが、凡なるものです。それはある意味では仕方がありません。なぜなら、それが健常者のデフォルト(基本設定)だからです。人間はそのように設定されているのです。なぜかはわかりません。おそらく99%以上の人が凡人として生きて死んでいきます。

瞑想修行や精神世界に興味をもつ人は「凡人として生きるのは嫌だ、聖なるものを知りたい」という気持ちが根本にあるような気がします。そのような人に向けて、この文章を書いています。

話が脱線しました(笑)。

聖人とは聖なるものを自覚した人です。それ以外は普通の人間と変わるところはありません。肉体をもつ以上、凡なるもの(時空間、現象世界)ともかかわらざるを得ません。ただ凡人と違うのは、凡なるものに引きずり回されず、凡なるものを使いこなすのです。しかし、聖人にも落とし穴はあります。使いこなしているつもりが、無意識のうちに使われるようになってしまうのです。聖者の凡人化の問題です。

それを恐れる聖者は、できるだけ凡なるものと関わりをもたないようにします。隠者として生きることを選ぶのです。これはこれでいいと私は思います。インドにはこのような隠者が多いのではないでしょうか。しかし、中国の禅はそのような人物を嫌います。聖者であることは認めるが、それでは「はたらきがない」というのです。穴倉禅というのは、そのような隠者化した聖者を皮肉る用語です。

中国禅では、隠者としての聖者よりさらに上級の聖者を目指します。それは凡に紛れても平気な聖者です。この聖者は常に凡人化の危険を孕んでいます。よっぽど「いつでも聖領域に戻れる。凡には染まらない」自信がないとできません。凡の中に飛び込み、密かに衆生済度をして、全く奢らない、それでいて聖なるものを失うことがない、そのような人物が禅の最高位の聖者なのです。

その最高位の聖者が普化です。臨済ほどの人がそれを知らないはずはありません。「あいつは聖か凡か」などと悩むことはなかったはずです。手を焼いたことはあったでしょうが。これはあくまでも作り話です。

臨済は普化がやって来ると「そなたは凡か聖か」と問います。ここからは問答です。臨済は「凡か聖か」知りたいわけではありません。二択で罠(わな)を仕掛け、普化に思念を起こさせようという魂胆です。もちろん、普化はそんなわかり切った仕掛けに乗るわけがありません。そのまま質問を臨済に返します。臨済は臨済でそれには乗らず、喝を返します。バツ喝でもなくほめ喝でもなく、即今喝のように感じます。

普化はそれにとどまらず、並み居る長老を批評して去っていきます。覚者間には師弟関係(上下関係)はすでになく、兄弟関係(対等の関係)しかありません。年上であろうがなかろうが遠慮なくものを言います。思い出してください。即今には多少の入る隙間はありません。したがって、年齢差、身分の差もないのです。無位の真人の間に違いがあるはずもありません。

それにしても、臨済はいつも「小さい」と言われています。小柄な人だったのでしょうか。

 

今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。

 

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