【臨済録】やさしい現代語訳・解説 勘弁3

2023/09/09
 

 

こんにちは!

今回は、普化の機鋒炸裂!

 

①読み下し文

師、一日、普化と同(とも)に施主家(せしゅけ)の斎(さい)に赴(おもむ)く次で、師問う、毛(もう)は巨海(きょかい)を呑み、芥(け)は須弥(しゅみ)に納(い)ると。為是(はた)神通妙用(じんつうみょうゆう)なりや、本体如然(ほんたいにょねん)なりや。

普化、飯牀(はんじょう)を踏倒(とうとう)す。師云く、太麤生(たいそせい)。普化云く、這裏(しゃり)は是れ什麼(なん)の所在にしてか麤と説き細と説く。

師、来日、又普化と同に斎に赴く。問う、今日の供養は昨日に何似(いずれ)ぞ。普化依然として飯牀を踏倒す。師云く、得(よ)きは即ち得きも、太麤生。普化云く、瞎漢(かっかん)、仏法什麼の麤細(そさい)をか説かん。師乃ち舌を吐く。

 

②私訳

臨済が普化を連れて、信者の家の法事に出向いたときのこと。

臨済は普化に問うた。「(維摩経に)一本の髪は大海を含み、一粒の芥子に須弥山が納まるとあるが、これは神通力のなせるわざか、それともありのままか」

普化は目の前にあった食膳を蹴倒した。

臨済は言った。「荒っぽいやり方だなあ」

普化は言った。「ココをどのような場所と知って、荒いの細かいのと言うのだ」

 

次の日、また臨済は普化を連れて、信者の法事に出向いた。

臨済は普化に問うた。「今日の供養は昨日に比べてどう違うか」

普化はまた食膳を蹴倒した。

臨済は言った。「法にかなってはいるが、やはり荒っぽい」

普化は言った。「メクラ野郎! 仏法に荒いの細かいのがあるものか」

臨済は舌を巻いた。

 

現場検証及び解説

 

臨済と普化の即今(即此処を含む)をめぐる問答のバトルです。かなり高度なことを扱っていますが、隠喩を使うので、うかがい知ることが難しくなっています。また激しいやり取りが印象的ですので、どうしてもその印象が強くなってしまいます。初心者が説明なしに、この項を理解するのは不可能です。細かく見ていきましょう。

「一本の髪は大海を含み、一粒の芥子に須弥山が納まる」はどういうことでしょう。そんなバカなことがあるか、と思います。しかし、即此処(無空間)の立場から見ると、充分にある事態です。たとえば古代、天文の知識がない頃、人々は日没をどう見ていたでしょうか。大地から生まれ、大地へと飲み込まれていくように、見ていたのではないでしょうか。

いや、それはおかしい、太陽より地球のほうが小さいし、太陽は不動で地球が回っているのだ、と言い出すのは思考です。思考が関わる前の即此処(無空間)状態では、大小なく、多少なく、軽重なく、などなどです。

維摩経の表現にならうと、「黒い細長いものが前面にあり、液体のうねりが背景にあれば、黒い細長いものに、液体が飲み込まれていくように」見えます。しかし、それが髪の毛と海だと、思考が判定したとたん、そうは見えなくなってしまいます。思考がやってくる前の即此処には、大小の観念がまだないので、上記のように感じてもおかしくはないのです。

そのような意識のこと、即此処での事態、それを貴方は摩訶不思議ととりますか、普通ととりますか、と臨済は問うています。私なら「普通のことです」と答えます。

しかし、そこは禅僧です。しかも、変人普化です。二択で出された問題に、素直に①②では答えません。普化は身近な食膳を蹴倒します。「あんたの言う、即此処とは、このことだろう」ということです。言葉でなく、事象で表現します。臨済が維摩経を引用し、美辞麗句を並べたのと対照的です。

無空間からのはたらきとはいえ、食膳をひっくり返せば、空間でその過程が展開します。碗の汁は飛び散り、飯は畳の上にこぼれ、使用人たちは悲鳴をあげる。整然とした膳がバラバラになります。美から醜へ。静粛から喧騒へ。

即今を知る二人の禅僧は、そんな事態にも超然としていられますが、まわりの凡夫はたまったもんじゃありません。現象世界(空間に展開した事態)にすぐに巻き込まれ、大騒ぎします。

臨済も、法は示したものの少しやりすぎだ、と思ったのでしょうか。うっかり「荒っぽいやり方だ」とコメントしてしまいます。そこを普化は見逃しません。「(即此処に)荒いも細かいもないぞ」と。臨済一本取られました。

 

翌日も臨済は普化に問答を仕掛けます。上記が空間が問題化していたのに比べ、今回は時間です。

「今日の供養は昨日に比べてどう違うか」

即今から逸れ、時間軸への移動があります。普化はそんな臨済の誘いに乗るはずもありません。食膳をひっくり返して、即今を示します。それにしても、この二人大丈夫でしょうか。臨済も、問答を仕掛けるにしても、時と場合を選んだほうがいいのではないでしょうか。檀家さん居なくなりますよ(笑)。

本当にそう思ったのか、臨済はまた苦情を漏らします。昨日と同じく、普化は鋭く切り返します。「仏法に荒いの細かいのがあるものか」確かにそうです。仏法はすなち即今(即此処を含む)です。即今とは無時空間です。無時空間に荒い細かいは存在しません。思考がやってきて、初めてそのような単位が存在するようになります。納得できましたでしょうか?

 

今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。

 

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Copyright© 瞑想修行の道しるべ , 2022 All Rights Reserved.