【臨済録】やさしい現代語訳・解説 勘弁1

2023/09/09
 

 

こんにちは!

今回は、空間と時間がテーマです。

 

①読み下し文

黄檗、因(ちな)みに厨(くりや)に入る次で、飯頭(はんじゅう)に問う、什麼(なに)をか作(な)す。飯頭云く、衆僧の米を揀(えら)ぶ。黄檗云く、一日に多少(いくばく)をか喫(きっ)す。飯頭云く、二石五(にせきご)。黄檗云く、太(はなは)だ多きこと莫(な)きや。飯頭云く、猶(な)を少なきを恐る。黄檗便ち打つ。

飯頭却(のち)に師に挙似(こじ)す。師云く、我れ汝が為に這(こ)の老漢を勘(かん)せん。纔(わずか)に到って侍立(じりゅう)する次で、黄檗前話(ぜんな)を挙(こ)す。師云く、飯頭会(え)せず、請う和尚一転語(いってんご)を代(かわ)れ。師便ち問う、太だ多きこと莫きや。黄檗云く、何ぞ道(い)わざる、来日(らいじつ)更に一頓(とん)を喫せんと。師云く、什麼(なん)の来日とか説かん。即今便ち喫せよ、と道い了(おわ)って便ち掌(しょう)す。黄檗云く、這の風顚漢(ふうてんかん)、又這裏(しゃり)に来たって虎鬚(こしゅ)を捋(ひ)く。師便ち喝して出で去る。

後に、潙山、仰山に問う、この二尊宿(そんしゅく)は意作麼生(いそもさん)。仰山云く、和尚作麼生。潙山云く、子を養って方(まさ)に父の慈(じ)を知る。仰山云く、然(しか)らず。潙山云く、子(なんじ)又作麼生。仰山云く、大いに勾賊破家(こうぞくはか)に似たり。

 

②私訳

黄檗和尚が、寺の台所に来て、飯頭(飯炊き係の僧)に問うた。

「何をしているのだ」

飯頭は言った。「衆僧が食べる米を選り分けております」

黄檗和尚は言った。

「一日どれくらい食べるのだ」

飯頭「二石五斗(約375㎏)です」

黄檗和尚「多すぎるのではないか」

飯頭「いえ、少ないくらいです」

黄檗和尚は飯頭を打った。

 

飯頭はこのことを臨済に話した。

臨済「よし、お前のために、黄檗のオヤジを試してやろう」

臨済が黄檗の傍(そば)で控(ひか)えていると、黄檗ははたして先の飯頭の話をした。

臨済「飯頭は(法を)わかっておりません。老師が代わりに正解を言ってください」

臨済は問うた。「多すぎるのではないか」

黄檗「どうしてこう言わん。明日もう一度食べます、と」

臨済「なぜ明日などと言う。今すぐ食え!」

と言って、平手打ちを食らわした。

黄檗「この非常識! ここに来て、また虎の髭を引っ張りよったな!」

臨済は喝して、出ていった。

 

後に潙山が仰山に問うた。「この2人の真意はどこにあるのだろう」

仰山「和尚はどう思いますか?」

潙山「子を持ってはじめて、父の慈愛がわかるというもの(臨済の態度は大人げない)」

仰山「そうではありません」

潙山「では、お前はどう思うのだ」

仰山「盗賊が家に押し入ったようなものです。(臨済は黄檗の妄想を破壊したのです)」

 

現場検証及び解説

 

臨済覚醒後の話です。まだ黄檗の僧堂には居ますが、すでに地位は高かった頃の話と思われます。飯頭はもちろん後輩です。

黄檗が僧堂の台所にやってきて来て、飯炊き係の僧に話しかけます。一日に約375㎏の米を消費していた僧堂です。行録には衆僧700人とありました。そこの飯炊きですから、大変な労働です。

最初に種明かしをします。ここでの会話は、米の多少を論議したわけではありません。飯頭が米が少ないと愚痴をいい、それに怒った黄檗がバツ棒を与えた、と解くと全く間違った解釈となります。でも、一見そう見えますね。それは仕方がありません。日常会話レベルで普通に読んでいくと、そのように見えます。しかし、それだと何だかしっくりときません。

これは法についての問答なのです。黄檗は世間話をすると見せかけて、飯頭に問答を仕掛けているのです。飯頭はそれに気づかず、黄檗にバツ棒(教化棒でもある)を食らったのです。

詳しく見ていく前に、即今を復習しておきます。即今は無時空間の点のようなものです。これは覚者にだけあるものではなく、凡夫(未悟)にもあるものです。凡夫は即今を知らず、常に即今から逸れ続けます。即今から逸れること、それが迷いであり苦の原因です。まず、それを確認しておきましょう。

即今というと、今という字が入っていますので、時間軸に逸れることはすぐにわかります。過去を思い出したり、未来を思ったりすること、これが時間軸に逸れること、即今を逸れることです。これはわかりやすい。しかし、忘れてはならないもうひとつに軸があります。空間軸です。

即今を逸れるというとき、時間軸に逸れるだけでなく、空間軸に逸れるケースが存在します。即今と言っていますが、即此処(そくここ)を含むのが即今の本当の意味です。意識は常にココにあります。「ココだけじゃない、あそこの茶碗はどうなるのですか?」と言われるかもしれませんが、そういうことではありません。心を静かにして聞いてください。

「あそこの茶碗とおっしゃるあの茶碗ですが、よく見て、よく感じてください。茶碗はココにありませんか?」そうです。すべてがココにあります。手元のスマホも、テーブルの上の茶碗も、窓から見える山も、すべてココにあります。

反論はおそらく「距離が違う」でしょう。しかし、それは距離という概念が必要になったときだけ、つまり思考が「距離は?」と言い出した時だけ「距離という概念」が生まれるのであって、それまでは距離はありません。考えが起こる以前は、スマホも茶碗も山も、ココにあります。確認してみてください。

「好雪片々別処に落ちず」とはそのことです。どの雪の欠片も、私という白スクリーンに落ちている、ということです。一度ゆっくりと熟考してみてください。

即今(正確には、即今であり即此処であるソレ)は無空間である、というのはそういうことです。ですから、思考が絡む前の即今には、距離もなく、大小もなく、軽重もなく、多少もなく、という具合です。空間がないのだから当然そうなります。

このことを頭に入れて、黄檗と飯頭の問答を見ていくと、会話の内容がハッキリとわかります。

黄檗の「一日どれくらい食べるのだ」は、日常会話とみせた問答です。「どれくらい」に対しての答えは「これくらい」と量を示すことになります。上記で確認したように、量は空間に展開する単位です。即今(即此処を含む)を外れます。そうです、黄檗は即今を外れさせようと、飯頭を誘っているのです。飯頭はその罠(わな)に気づきません。普通の日常会話をしているつもりで、「二石五斗」と量を答えてしまいます。

ちなみにこの場面で正解を言ってみるとすれば、原文では「多少ぞ」と黄檗は言っていますので、こうです。

「多いも少ないもあるものか! そんなものはココにはないわい!」です。おわかりでしょうか。

先に進みましょう。飯頭が気づかないので、黄檗はもう一度チャンスを与えます。「多すぎるのではないか」がそれです。ここで飯頭が「あ、問答か」と気づけば別の返答もできたのでしょうが、気づかなかったので黄檗にバツ棒を食らいます。バツ棒ではありますが、即今(即此処を含む)を示す教化棒でもあります。「何処を迷っておる、ココだぞ!」というココ棒です。

 

飯頭は黄檗の言動に納得出来なかったのでしょう。先輩の臨済に訴えます。で、ここが、禅の優しくないところですが、「お前それはわかってないよ、それはね・・・」と飯頭に教えてやればいいものを、そうはならないのです。

臨済も、話を聞けば事情はわかるはずのに、教化に回らず、対決に向かいます。「よし、俺が黄檗を試してやろう」と、こうなるのです。飯頭を教化することのほうが、黄檗をやり込めることより重要だと、私には思えるのですが。

臨済は、黄檗和尚ならどう答えますか、という方向にうまく話をもっていきました。先に申し上げておきますが、この項は後年の創作です。黄檗のような一流の禅僧が、こんな凡庸な答えをするはずはありません。臨済の優位性を示すフィクションだと思ってお読みください。

「多すぎるのではないか」の問いに黄檗はこう答えます。

「どうしてこう言わん。明日もう一度食べます、と」

上記の即今の定義から検討してみると、「明日もう一度食べます」に量は出てきません。つまり、空間軸に逸れることは免れているわけです。しかし、「明日」というのがいけません。もう、おわかりかと思いますが、未来に思念を起こしてしまっています。これは即今を深く知る禅僧なら、絶対にしない凡ミスです。

臨済は見逃しません。「なぜ明日などと言う。今すぐ食え!」と言って平手打ちをします。平手打ち、その後の喝はバツ打、バツ喝であると同時に、即今打、即今喝です。この場合、平たく言うと「今だ!」「今だ!」という教えが込められています。

 

潙山と仰山の会話も、作り物臭いです。潙山ほどの禅僧が、真意を取り損ね、臨済の奴無礼なるぞ、みたいなことを言うはずはありません。それに禅の問答は、親子の情に置き換えられるような次元のものではありません。

即今か即今でないか、ただそれだけ。即今は無時空間ですから、そこには親子関係、夫婦関係、兄弟姉妹、上下関係、友人関係、すべての関係がありません。境地の差と呼ばれているものは、即今をいかに保って生きているか、それだけが大事なんですから。

「盗賊が家に押し入ったようなもの」の盗賊は臨済のこと。意訳するとこうです。

「臨済は黄檗の家に押し入って、妄想(明日という観念)を破壊した」

禅で奪う、奪われる、また、盗賊の隠喩はそのことです。この場合の盗賊は悪者ではありません。妄想に陥りやすい私たちの念を奪ってくれる荒っぽいヒーローなのです。

 

今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。

 

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