【臨済録】やさしい現代語訳・解説 行録16

2023/09/09
 

 

こんにちは!

今回は、臨済臨終の場面です。

 

①読み下し文

金牛(きんぎゅう)に到る。牛(ぎゅう)、師の来たるを見て、横ざまに拄杖(しゅじょう)を按(あん)じ、門に当って踞座(こざ)す。師、手を以って拄杖を敲(たた)くこと三下(さんげ)し、却(のち)堂中に帰して第一位に坐す。牛下り来たって見て、乃ち問う、夫(そ)れ賓主(ひんじゅ)の相見(しょうけん)は、各(おのおの)威儀を具す、上座何(いず)れより来たってか太(はなは)だ無礼生(ぶれいせい)なる。師云く、老和尚什麼(なん)と道(い)うぞ。牛、口を開かんと擬(ぎ)す。師便ち打つ。牛、倒るる勢(せい)を作(な)す。師又打つ。牛云く、今日は便(たより)を著(え)ず。

 

潙山、仰山に問う、此の二尊宿(そんしゅく)、環(は)た勝負有りや。仰山云く、勝つときは即ち総に勝ち、負くるときは即ち総に負く。

 

②私訳

臨済は金牛和尚のところに到った。

金牛は臨済が来るのを見ると、杖を真横に構え、門前に坐りこんだ。

臨済は手で杖を三度叩き、坐禅堂に入り、第一位の坐に坐った。

金牛は後を追い、問うた。

「客と主人の対面は、お互い礼儀をわきまえるもの。そなたはどこから来たか知らんが、はなはだ無礼な方ですな」

臨済「老和尚、なんと言われましたかな」

金牛が口を開こうとすると、臨済は和尚を打った。

金牛は倒れそうになった。そこをさらに臨済は打った。

金牛「今日はうまくいかんわい」

 

潙山は仰山に問うた。

「この二人の間に勝負はあったのかな」

仰山「勝ったとすれば二人とも勝ち、負けたとすれば二人とも負けです」

 

現場検証及び解説

 

この項は、臨済の道場破りの話でしょう。イマイチ面白味に欠けるように思います。深い意味が隠されているようにも思えません。

金牛和尚の最初のポーズ、門前で杖を横に構えて、というのは「関」の字をイメージします。ここは通さんぞ、という意味。しかし、臨済は杖を手で三度叩いて、さっさと僧堂に入ってしまいます。三度叩きは「入りますよ」という合図かもしれませんし、「私は法のことはわかってますからね」という印だったのかもしれません。

臨済としては、それで禅僧どうしの礼はつくしたということなのかもしれません。しかし、金牛は世俗的な普通の礼を欲したようです。「無礼じゃないか」と臨済に迫ります。臨済は相手になりません。世俗的な対応はしませんよ、ということかもしれません。

さらに金牛が何か言おうとすると、問答無用とばかり金牛を打ちます。「言葉でなく即今ですぞ」という一打です。倒れそうになった金牛に、さらに一打。「即今ですぞ」の念押し打でしょうか。金牛は「今日はうまくいかん」と問答を諦めます。どこかとぼけた味わいのある和尚です。

 

続く潙山、仰山の問答で、勝負はなかった、との見解が語られていますが、私は禅の見地からは、臨済が勝っているように思いました。世俗的な見地からは、金牛和尚と同じく、何と横着で無礼な男かと思います。

 

もうひとついきましょう。

 

①読み下し文

師、遷化(せんげ)に臨む時、坐に拠(よ)って云く、吾が滅後、吾が正法眼蔵を減却(げんきゃく)すること得ざれ。三聖(さんしょう)出でて云く、争(いか)でか敢(あ)えて和尚の正法眼蔵を減却せん。師云く、已後(いご)人有って你(なんじ)に問わば、他(かれ)に向って什麼(なん)と道(い)うや。三聖便ち喝す。師云く、誰か知らん、吾が正法眼蔵這(こ)の瞎驢辺(かつろへん)に向(お)いて減却せんとは。と言い訖(おわ)って、端然として示寂(しじゃく)す。

 

②私訳

臨済が臨終の際、坐椅子にもたれて言った。

「我が亡きあと、我が正法眼蔵を滅することなかれ」

三聖が進み出て言った。

「どうして和尚の正法眼蔵を滅することがありましょうか」

臨済「もし我が滅後、人に法を問われたら、お前はなんと答えるのだ」

三聖は喝した。

臨済は言った。

「なんと、我が正法眼蔵が、このめくらロバのところで途絶えてしまうとは」

と言い終わり、端然として亡くなられた。

 

現場検証及び解説

 

いきなり臨済の臨終の場面です。いささか唐突な印象を否めません。臨済の法を継いだと言われている三聖が、間抜けな役回りを演じています。ここは後代の創作のようですが、何を意図してこのような項を設けたのかわかりません。笑っていいものか、怒っていいものか、理解に苦しみます。皆さんはどう思われますか?

真似喝を諫(いさ)めたのだ、ととるのが順当なところでしょうか。しかし、それなら三聖というようなビッグネームをもってこなくてもよさそうなものです。また、現存してはいませんが、最初の臨済録を編んだのは三聖です。先輩の功績を無視して、このような作り話を新版に置くとは、悪ふざけが過ぎます。

入矢先生の解説によると、臨済と三聖のやり取りを法の伝授ととるむきもあるようですが、それはちょっと無理があるのではないでしょうか。

また、厳密に言えば、法は減却することはありません。法(仏性)は永遠不滅のものですので、減却はおかしいのです。また、伝授というのも、真実と符号しません。法は常にそこにあり、各自に発見されるものだからです。黄檗が臨済に法を伝授したわけではありません。黄檗や大愚が触媒となり、臨済は法を発見したのです。貴方にも発見のチャンスはもちろんあります。貴方と共にソレはあります。片時も貴方から離れたことはありません。何しろ貴方自身と言ってもいいようなモノ、ソレが仏性(法)なのですから。

 

次回から、勘弁(かんべん・問答を通じて相手の境地の深さを探ること)の項に取り掛かります。ご期待ください。

 

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