【臨済録】やさしい現代語訳・解説 行録15

2023/09/09
 

 

こんにちは!

今回は、月にご注目ください。

 

①読み下し文

鳳林(ほうりん)に往く。路(みち)に一婆に逢う。婆問う、甚(いず)れの処にか去(ゆ)く。師云く、鳳林に去く。婆云く、恰(あたか)も鳳林の不在なるに値(あ)う。師云く、甚れの処にか去く。婆便ち行く。師乃ち婆と喚(よ)ぶ。婆、頭(こうべ)を回(めぐ)らす。師便ち打つ。

 

②私訳

臨済は鳳林和尚を訪ねる途中、一人の老婆に会った。老婆は問うた。

「どこに行きなさる」

臨済「鳳林和尚のところです」

老婆「あいにく鳳林和尚は不在ですぞ」

臨済「どこへ行かれたのか」

老婆は答えずに行きかけた。

臨済は「婆さん!」と呼びかけ、老婆が振り返ると、打った。

 

現場検証及び解説

 

この項は普通に読むと、なにがなんだかわかりません。しかし、これを問答だととらえると、なんとなくわかってきます。

また、「どこに行きなさる」と訳しましたが、原文は「去」の文字が当てられており、直訳すると「どこに去るのですか」です。これは肉体の去る場所、移動する場所を問うているのではありません。意識の去る場所を問うています。眠るとき、私たちはどこに去るのでしょうか。死ぬとき、私たちはどこに去るのでしょうか。婆はその根本問題を問うています。禅に登場する婆はただの婆ではありません。禅に通じた婆なのです。

臨済は婆の問いかけを、おそらく知らんぷりしています。なぜなら、婆の問いを「意識の去る場所」としてではなく、「肉体(臨済自身)の去る場所」として返答しているからです。それで、会話がちぐはぐなのです。

婆の「あいにく鳳林和尚は不在ですぞ」というのも、問答としてとらえると、次のようになります。「あいにく鳳林和尚などという個人(仏教は無我を旨とします)はおられませんぞ」

この返答には、臨済はどちらともとれる返答をしています。俗世間の習いで返答しているとすると、「和尚はどこに行かれたのですか」になります。しかし、法問答ととらえると、「(意識は)どこに去るのか」になり、真剣味を帯びてきます。

婆はそれを察知したのでしょうか。急に恐れをなしたかのように、踵を返します(法問答として解釈します)。臨済は「婆!」と呼びかけます。婆が振り返った先に振り下ろされる一打は、「(意識は)どこに去るのか」に対する答えです。「ここだ!」と。

婆に気づきはあったでしょうか。これは臨済の婆に対する教化の棒なのです。

 

もうひとついきましょう。

 

①読み下し文

鳳林に到る。林問う、事(じ)有り、相借問(しゃもん)す。得(よ)きや。師云く、何ぞ肉を剜(えぐ)って瘡(きず)と作(な)すことを得ん。林云く、海月澄んで影無く、遊魚独(ひと)り自ら迷う。師云く、海月既に影無し、遊漁何ぞ迷うことを得ん。鳳林云く、風を観て浪の起こるを知り、水を翫(もてあそ)べば野帆飄(ひるがえ)る。師云く、孤輪独り照らして江山静かに、自ら笑う一声天地驚く。林云く、任(たと)い三寸を将(も)って天地を輝かすも、一句機に臨んで試みに道(い)い看よ。師云く、路に剣客に逢わば須らく剣を呈すべし、是れ詩人にあらずんば詩を献ずること莫れ。鳳林便ち休す。師乃ち頌(じゅ)有り、大道は同(どう)を絶し、西東に向かうに任(まか)す。石火(せっか)も及ぶこと莫(な)く、電光も通ずること罔(な)し。

 

潙山(いさん)、仰山(ぎょうざん)に問う、石火も及ぶこと莫く、電光も通ずること罔くんば、従上(じゅうじょう)の諸聖、什麼(なに)を将(も)ってか人の為(ため)にする。仰山云く、和尚の意作麼生(いそもさん)。潙山云く、但有(あらゆ)る言説(ごんせつ)は、都(すべ)て実義無し。仰山云く、然らず。潙山云く、子(なんじ)又作麼生。仰山云く、官には針をも容(い)れず、私には車馬を通ず。

 

②私訳

臨済は鳳林和尚のところに到った。鳳林和尚は問うた。

「ひとつお尋ねしたいのですが、よろしいでしょうか」

臨済「どうしてわざわざ肌に傷を付けるようなことをなさるのですか」

鳳林「海上に月の影はありませんが、そこに泳ぐ魚が独(ひと)りで迷っております」

臨済「海上に月の影がないのならば、魚が迷うことはありませんぞ」

鳳林「風を見れば波が起こり、水に遊べば帆が翻(ひるがえ)る(ように心が落ち着きません)」

臨済「孤なる月光は独り静かに江山照らします。(その真理を知れば)自然に笑いが起こり、その声に天地も驚きますぞ(薬山禅師の故事を引用している)」

鳳林「言葉(舌)で天地を輝かすのもいいですが、この場に合った(もう少し説明的な)一句を試しに言ってみてください」

臨済「道で剣客に会えば剣を抜くのです。詩人相手でなければ詩を献ずることはありません」

そこで鳳林は問答を止めた。

臨済はその場を讃(たた)える詩を作った。

「この道は大道ではありますが、人それぞれの道を行くしかなく、皆が通れるような道はありません。西に向かうも東に向かうも各自の自由なのです。(即今=法は無時空間のことだから)石火もそれを表現できませんし、電光もそれを表現できません(言葉で表現できない)」

 

後に潙山が仰山に問うた。

「石火も及ばず電光も通じないなら(言葉で表現できないのなら)、今までの祖仏は、どのようにして人に法を説いてきたのだろう」

仰山「和尚はどう思われるのですか」

潙山「あらゆる言葉は仏法教化の役には立たん」

仰山「私はそうは思いません」

潙山「では、お前の意見はどうなのだ」

仰山「公の立場なら、針をも通さぬような厳格を取り扱いをいたしますが、私の立場なら、裏口から馬車を通してやるような融通もきかせるでしょう」

 

現場検証及び解説

 

この項は、対等の問答ではなく、鳳林が臨済に教えを請うています。また、鳳林の質問に対して臨済はストレートに応えていません。常にずらして答えています。そのことを頭に入れて、読んでいきましょう。

まず、「質問していいですか」との鳳林の言葉に、臨済は素直に「いいですよ」とは言いません。「質問などすることはないでしょう。そのままではなぜダメなのですか」という感じの受け答えです。

しかし、鳳林は質問します。隠喩を用いて、法のことを問うています。あからさまに言えば、自身の内面の悩みを訴えています。

「海上に月の影はありませんが、そこに泳ぐ魚が独(ひと)りで迷っております」

「海上に月の影はない」というのは、心の状態のことを自然に託して語っているのです。月は個我のことです。海の上に月の姿は映っていない、つまり「個我の反映はすでに見当たりませんが」ということです。ちなみに、個我は月で表現され、真我は太陽で表現されます。馬大師の「日面仏、月面仏」はそのことです。

個我の反映とは、妄想と言い換えてもいいと思います。「妄想することはもうないのですが・・・」まだ迷いがあります、どうしたらいいのでしょうか、というのが鳳林の問いです。正直です。好感をもてます。

ここで、もう少し種明かしをしますと、鳳林は一貫して「悟りの階梯への、あともう一歩の方法」を臨済から得たがっています。自分はまだ徹底した法を会得していない、という自覚があります。そして、自分より境地が上だと思われる臨済にその方法を問います。

しかし、臨済は最後までそれに応えていません。いろいろ言いますが、「こうすればいいのです」とは言わないのです。そこにも注目してください。最後に「なぜ、自分は方法について語らないのか」についてわずかに吐露しているところがあります。それは後ほど説明します。

「まだ、迷っています。どうしたもんでしょう」の鳳林の問いに対する、臨済の答えを意訳すれば、次のようになります。

「もし、妄想することがないのなら、迷うことはないはずですよ」これは理論的にも確かなことです。妄想=迷いなのですから、迷っているうちは妄想しているのです、それが意識化されていないだけで。

鳳林の「風を見れば波が起こり、水に遊べば帆が翻(ひるがえ)る(ように心が落ち着きません)」はその実態を言っています。「海上に月影はない」つまり「妄想していません」といいながら、それはあくまで自己申告で、上記の言葉を参照すれば、鳳林が未だ激しく妄想していることは明らかです。

妄想は確かにしつこく、また自覚しにくく、厄介です。鳳林の気持ちも、同じ修行者としてよくわかります。誰か知っていそうな人に、方法を問い正したい気持ちも。

しかし、臨済はその方法を教えてくれません。真理を自覚したときの結果だけ語ります。

「孤なる月光は独り静かに江山照らします」ここは「孤」と「独」が重要です。また、太陽(真我)と月(個我)の関係を説明しないと、よくわかりません。

月の光は太陽の光の反射です。これは隠喩(メタファー)です。太陽の光は真我の光、月の光は個我の光です。私たちが見ている世界は、月の光に照らされた世界です。しかし、元をたどれば太陽の光に照らされた世界です。しかし、凡夫(未悟)は太陽の光だと知りません。あくまでも月の光の先を見ていると思い込んでいます。覚者は月の光に照らされた世界が、太陽の光に照らされた世界だと知っています。それだけの違いです。

月の光(個我)は有限です。太陽の光(真我)は無限にして永遠です。

隠喩のイメージをもう少し広げます。実際の月はひとつですが、個我は様々です。地球上のあらゆる生命が個我として生きています。多様な生命が数多く存在しています。しかし、元をたどればそれはひとつの光の反映です。ひとつの光とは、真我の光、隠喩でいう太陽の光です。太陽はひとつです。真我、仏性、本来の面目はひとつです。しかし、月(個我)は多様です。ひとつではなく多数です。

太陽の光が多数の月を照らし、それぞれの月が、その光の照らす先を見ている様子、をイメージしてみてください。これが仏教の世界観、真理です。うまくイメージできたでしょうか。また、この考えを受け入れることができたでしょうか。面白いと思ったでしょうか。感想を聞いてみたい気がします。

先に進みましょう。臨済は「孤なる月は独り」と言っています。これは月の光が太陽の光の反映であることを暗示しています。それを「月が独りぼっちで世界を照らしている様子」ととると、重要なポイントが見えてきません。実際の月はひとつですから、そうとるのも無理はないのですが、そうすると法とリンクしてきません。意訳してみましょう。

「月光が本来ひとつ(太陽の光)であることを知れば、照らされた山々は静かに見えるでしょう(心は落ち着く)。法を知れば自然に笑いが起こり(迷いは晴れ)、その声は天地も驚くほどです」

鳳林はこの答えに納得しません。先に述べたように、鳳林は「どうしたらそのような境地に至れるのか」その方法が知りたいのです。臨済は境地の素晴らしさは語りますが、方法は語りません。二人の会話がどこかちぐはくなのはそのせいです。

鳳林はさらに臨済の言葉を促します。

「言葉(舌)で天地を輝かすのもいいですが、この場に合った一句を試しに言ってみてください」

臨済の「照らす」に対して、鳳林は「輝かす」と受けています。「もう一句」とせがむのは、上記したように方法を知りたいからです。

臨済はこの申し出に対して、やはり方法は語りません。論点をずらして返答しています。意訳するとこうです。「私は優れた剣客に逢わなければ剣は抜きません。私は詩人に逢わなければ詩を献ずることもありません。貴方を認めるからこそ、こうして問答しているのですよ」

このような会話を読むと、臨済は機鋒が鋭いばかりでなく、思いやりのある方だったように感じますね。この一句で鳳林は黙ります。次の臨済の頌(じゅ。ほめたたえる詩)は興味深いです。仏道の方法論について語っているように読めます。つまり、仏道に方法論はないのだ、と語っていると思うのです。私訳の段階でかなり意訳してしまったので、読めばわかると思います。

ひとつ付け加えると、禅は大道と言って間口を広くとります。無門というのも、そのようなニュアンスがあります。至道無難もそうです。しかし、先に進めばだんだんと狭き門の態をなしてきます。悟りに達する人は数少なく、さらに上を行く人はさらに少なくなります。このような言説は修行者を絶望させるかもしれませんが、事実だから仕方がありません。

「皆が通れるような道はない」というのは、要するにマニュアル化できない、ということを言っています。各自の成功体験は語れます。「黄檗に三度打たれ、大愚と問答して、悟った」とは言えます。しかし、それを他人に適用はできません。臨済の悟りの過程は、臨済のとき一回こっきりのものです。一般化できないなにものかです。

禅の文献に修行法が見当たらないのは、そのあたりに理由があるのかもしれません。また、修行法として予め提示してしまうと、どうしても受け身の態度になります。困難ではありますが、ああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返し、自分の修行法を探っていく、というのが唯一の方法なのかもしれません。臨済はそのことをよく知っていたのでしょう。

 

潙山、仰山の会話は不立文字がテーマです。潙山は「言葉では教化できん」というタイプ。仰山は「それは時と場合によりますよ」というタイプ。

私は仰山の肩をもちます。だって、言わなきゃわかんない。言ったってわかんない奴も多いけど(笑)。

 

今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。

 

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