【臨済録】やさしい現代語訳・解説 行録11
こんにちは!
今回は、無口な臨済が語ります。
①読み下し文
三峰(さんぽう)に到る。平(びょう)和尚問う、什麼(いずれ)の処よりか来たる。
師云く、黄檗より来たる。平云く、黄檗何の言句(ごんく)か有る。師云く、金牛(きんぎゅう)昨夜塗炭(とたん)に遭(あ)う。直(じき)に如今(いま)に至るまで蹤(あと)を見ず。平云く、金風(きんぷう)、玉管(ぎょっかん)を吹く、那箇(いずれ)か是れ知音(ちいん)。師云く、直に万重(ばんちょう)の関(かん)を透(とお)って、清霄(せいしょう)の内にも住(とど)まらず。平云く、子(なんじ)が這(こ)の一問、太高生(たいこうせい)。師云く、竜、金鳳子(きんぽうす)を生じ、碧瑠璃(へきるり)を衝破(しょうは)す。平云く、且坐喫茶(しゃざきっさ)。
又問う、近離甚(きんりいず)れの処ぞ。師云く、竜光。平云く、竜光近日如何(きんじついかん)。師便ち出で去る。
②私訳
臨済が三峰山に到ったとき、そこの住職の平和尚が問うた。
「どこから来られたか」
臨済「黄檗から参りました」
平「黄檗和尚は(法について)何と言っておられますか」
臨済「金の牛(法)は昨夜炉で溶けてしまい、今では跡形もございません」
平「金の風(法)が吹き鳴らす調べは誰に知られるのでしょうか」
臨済「(法は)幾重もの関を透って、青空の内にも留まりません」
平「そなたの言うことは、程度が高すぎます」
臨済「竜(黄檗)は金の鳳凰(臨済)を生み、青空を突き破ったのです」
平「まあ、お茶でも飲みなさい」
また、平は問うた。「直近はどこから来たのですか」
臨済「竜光」
平「竜光は最近どうなのです」
臨済は立ち去った。
現場検証及び解説
今回の臨済は語っています。しかしながら、比喩が多すぎます。法についてストレートに語らず、自然や物に託して語るのが中国人の習いのようですが、レトリックに凝りすぎると、後世誤解を生む可能性があります。
直訳は「黄檗和尚は何と言っておられますか」ですが、平和尚は「黄檗和尚は法をどのように説いておられるのか」と問うています。その後、二人のあいだで、比喩によって法の内容が語られます。
何度も言うように、法=仏性=本来の面目は対象化できないモノです。したがって観念(言葉)によって語ることはできません。本当は、比喩によってさえそれを語ることは不可能ですが、そこをあえて語っているわけです。
金の牛というのは法のこと。法は、牛の像のようなソリッドな固体として語ることはできず、むしろ溶けたあとの液体、いや気体、いいえ、姿形のないものとして語る方が適当でしょう、と臨済は言います。法は対象化できませんから、臨済の言うことは的を得ています。
しかし、対象化できない、語るを得ずと言いながら、そこを何とか言ってほしい、と言い出すのが禅のややこしいところです。言えなきゃ黙ってりゃいいのにね。でも、仕方ありません。二人の会話に付いていきましょう。
それを受けて平和尚は、次のように答えます。意訳してみましょう。「あなたの言うことはもっともだ。しかし、風のように跡形ないものなら、その教えは誰に届くのですか」つまり、法は跡形もない、言葉では言えない、それはそうだが、それでは伝法はどうなります、誰にも伝わらないじゃありませんか、とこう突っ込んでいます。臨済に、そこを何とかもう一句言い得てほしい、と次の句を求めています。
臨済は平和尚の申し出には応えていません。跡形もないものは跡形もないものとして取り扱うべきです、と。比喩を用いてこのことを言ってみましょう。
気体を液体にして、液体を固体にして、いわば金でできた牛の像のような形で法を語ることは、私はいたしません。金の牛にして語れば、人口に膾炙(かいしゃ)するものにはなるでしょう、しかし、それでは法に背きます、ということです。
臨済が表現する法は、さらに捉えどころのないものになります。捉えどころがなくなりますが、それが真実に近い表現なのです。ただ、誤解してほしくないのですが、わかりにくい表現ほど真実に近い、と言っているわけではありません。
「(法は)幾重もの関を透って、青空の内にも留まりません」
法というとわかりにくいかもしれませんが、要するに意識のことです。普段私たちはあまり気にしていませんが、意識って自由自在で万能だと思いませんか。どんなことでも、意識できます。醜いものも美しいものも、悲しみ喜び苦しみ楽しみ、微細なものから巨大なものまで、瞬時に切り替わって認識されます。
そんなの当たり前じゃん、と言われるかもしれませんが、それはあなたが他のものを経験したことがないからです。つまり、常にあなたはソレなんですから。それ以外知らないから、そう思うのです。一度当たり前のソレを吟味してみてください。うまくいけば、ソレの不思議が感じられるかもしれません。ソレが、法=仏性=本来の面目です。ソレは対象化できませんが、どうやら感じることはできるようです。
臨済の境地に及ぶべくもありませんが、上記の一句は、意識の自由、万能、そして永遠を語っているように思いました。
「竜(黄檗)は金の鳳凰(臨済)を生み、青空を突き破ったのです」は臨済が自画自賛しているようにも解釈できます。しかし、覚者に個人の感覚はすでにありません。言い換えると、自意識がありません。それが全くないわけではなく、一瞬自意識が起こるが、それを使ってすぐ捨てるのです。外から見ると普通の人に見えますが、内面はそういう感じです。
それに比べて凡夫(未悟)は、自意識が綿々と続いてしまう、のです。それは自意識=自分であり、自分は確固としてある、と信じているからです。信じているからこそ、自意識のケアを常に熱心に行っています、無意識のうちに。そのあたりは瞑想修行して、内面を観察する癖を付けないと、なかなかわかってこないかもしれません。自意識へのケアを止めることが自意識を弱めることになります。
内面観察の過程で、自分の嫌な面に気づかされますので、結構辛い思いをします。しかし、それが修行の肝心要(かんじんかなめ)なところです。この辛くて惨(みじ)めな、自己分析の孤独行を抜けて通らないと、なかなか本当のことはわかってきません。怖くて目を逸らしたり、勇気がなくて引き返したら、宝を手にすることはできません。自分をごまかさずに真剣に取り組むこと、あきらめないことが成功の秘訣です。
話が逸れました。臨済の話でした。臨済は自画自賛しているわけではありません。自分は幻想だと知っています。竜、鳳凰は個人を讃(たた)えているというより、法を讃えていると取ったほうが良さそうです。法の体現者を讃えている、そこに自意識はない、とも言えるでしょう。
平和尚は、臨済に法をわかりやすく語らせることを断念します。一息つこうとお茶をすすめますが、臨済は行ってしまいます。
竜光に話が及んだことがきっかけでしょうか。黄檗は語るに足るが、竜光は語るに及ばない、ということでしょうか。それとも、法について語りすぎたと思ったのでしょうか。いえ、そのどちらでもないでしょう。どちらも思念が絡んでいます。臨済はそのようには振る舞いません。
ただ、去ったのでしょう。説明は不要です。
今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。