【臨済録】やさしい現代語訳・解説 行録10

2023/09/09
 

 

こんにちは!

今回は、臨済の道場破り、です。

 

①読み下し文

師、達磨の塔頭(たっちゅう)に到る。塔主(たっす)云く、長老、先に仏を礼(らい)せんか、先に祖を礼せんか。師云く、仏祖倶(とも)に礼せず。塔主云く、仏祖は長老と是れ什麼(なん)の寃家(おんけ)ぞ。師便ち払袖(ほっしゅう)して出づ。

 

②私訳

臨済は達磨大師の墓がある寺に行った。

住職が聞いた。「長老(臨済)は、先に仏陀に礼拝されますか。それとも、先に達磨大師に礼拝されますか」

臨済「仏陀、達磨大師、共に礼拝しない」

住職「長老は何か仏祖(仏陀と達磨大師)に恨みでもあるのですか」

臨済は袖を打ち払って立ち去った。

 

現場検証及び解説

 

住職が臨済に問答を仕掛けています。臨済はそれに取り合わずに踵を返して出ていった、そういう話です。人間は「どっちにしますか?」と問われれば、必然的に「んーと・・・どっちがいいかなあ」と思考を働かせます。つまり、即今を外れます。それが禅的にはNGなのです。

転勤先で初出勤の際、「どうします? 所長に挨拶しますか、それとも先に部長に挨拶しますか」と聞かれるようなもの。あなたならどう答えますか。私なら心配そうに「・・・どっちがいいんでしょうか」と訊ねると思います。禅的にはそれはダメです。「挨拶なんてしませんよ」とうそぶいて「俺の席どこ? あ、ここね。よいしょっと」と腰掛けて悠々と本を読み出す。そうでなくっちゃね、という話。尋常の神経ではありません。

臨済も問われなければ、普通に二者に礼拝して去ったに違いありません。どちらが先かはそのときの気分です。思考で選ぶのではなく、反応に任せるのです。それが禅的なあり方です。

上記の所長、部長の例で言えば「どっちがひまなの? 所長? じゃあ所長を先にしよう」と、こんな感じです。間髪入れずに反応(判断ではなく)していく。これが随所に主となる、ということです。「挨拶なんてしませんよ」では、やはりまずいでしょうし、禅的とも言えません。ただのアホです。

臨済は問答を避け、礼拝をスルーし、即今を守った。それはそれで、見事な処し方と言えるでしょう。

 

もうひとついきましょう。

 

①読み下し文

師、行脚(あんぎゃ)の時、竜光(りゅうこう)に到る。光、上堂(じょうどう)す。師、出でて問う、鋒鋩(ほうぼう)を展(の)べずして、如何が勝つことを得ん。光、拠坐(こざ)す。師云く、大善知識、豈(あ)に方便無からんや。光、瞠目(どうもく)して云く、嗄(さ)。師、手を以って指ざして云く、這(こ)の老漢、今日(こんにち)敗闕(はいけつ)せり。

 

②私訳

臨済が行脚の際、、竜光和尚のところに到った。竜光は説法していた。

臨済は進み出て問うた。

「鉾先を交えずに、勝てるやり方があるでしょうか」

竜光は坐で示した。

臨済「高僧たるもの、もう少し工夫が欲しいですね」

竜光は驚いたように眼を見張って、嗄(しわが)れた声を上げた。

臨済は竜光を指差して言った。

「この老いぼれオヤジ、負けよったぞ!」

 

現場検証及び解説

 

竜光和尚は、岩波文庫の注によると、特定できない人物のようです。しかし、テキストの内容からうかがうに、身分が高く当時著名な方だったようです。

また、臨済のどの時期の出来事だったのか不明です。覚醒後であることは確かです。黄檗の道場にいた頃の話なのか、黄檗に大肯定された後、北に向かう道中のことなのか、わかりません。

この項は、道場破りの話です。細かく説明を加えないと、臨済はただの恐ろしく無礼な男にしか見えません。さあ、ふんどしを締め直して、取り掛かりましょう。

臨済がまず問答を仕掛けます。「鉾先を交えずに、勝てるやり方がありましょうか」これは、もちろん、暗示、謎かけです。戦(いくさ)のことを言っているのではない。言い換えるとこんな感じです。

「問答のやり取りをせずに、勝義諦(しょうぎたい)に在る方法はあるでしょうか」いや、こうかもしれません。「言葉にせず、勝義諦を示すことはできるでしょうか」

勝義諦とは「即今に在ること」です。反対語が世俗諦(せぞくたい)。世俗諦とは、「即今を外れること」「思念を起こすこと」です。

竜光和尚は、臨済の問答を受けて立ちます。坐で即今を示します。「これが勝義諦です」と。間違いではありません。臨済の無礼をものともせず、スッと坐でそれを示した。立派です。法の理解もしっかりしたものがある方です。

しかし、臨済はそれでは満足しませんでした。

で、ここからが禅のややこしいところですが、「言葉ではない即今を示せ」と言いながら、それを示すと今度は「それでははたらきがない」と言い出すのです。臨済の二度目の突っ込み「高僧たるもの、もう少し工夫が欲しいですね」はそれです。

難解なところなので、もう少し丁寧に説明していきます。

即今は、無時空間の点、のようなものです。そこに時間(過去の思い、未来への思い)はありません。特殊なものではありません。日常私たちが時々経験するアレです。「あ、今、何にも考えずに、ボーっとしていた」ソレなんです。しかし、残念ながらソレは長くは続きません。人はごく自然に、あるいは強制的にあれこれ思考を始めます。

晩御飯どうしよう。明日レジメを提出しなきゃ。あいつに会ったらメールで伝えたこと、念押ししておこう。これは未来への思念です。

晩御飯のメニュー決めるのに朝飯のことを思い出します。明日のレジメを仕上げるために、どこまで書いたんだっけ、と振り返ります。あいつはルーズだから、念押しが必要だと判断するには、あいつの今まで所業を寸時に思い出す必要があります。これは過去の記憶の参照です。

このように私たちは、常に過去と未来を行ったり来たりして、思念を働かせています。また、これは空間の行ったり来たり、つまり関係も含んでいます。晩御飯には夫の顔(夫との関係)が、明日のレジメには上司の顔(上司との関係)が、念押しには部下の顔(部下との関係)が、といった具合に。

ザックリ言うと、私たちはひっきりなしに時空間を行ったり来たりして、思念を起こしている(思念に続く感情も起こしている)。また、起こさざるを得ない環境にあると言えます。

このやりたくもないのに、自然に起こってきてしまう思念を、一体どうしたらいいのでしょうか。これは、誰でも考えることですが、「世事と関わらずにひっそりと暮らしたい」です。そうですね。傷つくことが多いこの世を儚(はかな)んで隠居を試みます。

隠居は時間に追われません。隠居は人間関係を最小限にします。このような生活が実現できれば、思念は減ります。そういう意味で僧堂は、思念を減らすにはいい場所なのでしょう。また、僧堂には歓楽街はありませんから、欲望を満たすことができない、というメリットもあります。しかし、そこを出たらおそらくリバウンドに襲われるでしょう。

それはともかく。禅は思念を減らすための修行は認めますが、覚醒後、思念が起こりにくい状況で、隠居然とした態度でいることを大変嫌います。穴倉禅(穴に入って世間に出て来ない)はダメなのだ、という考えです。覚醒後は、覚者然として崇め奉られるよりも、むしろ覚醒を隠し、あたかも凡夫の如く、それでいて密かに衆生済度に勤めている、そのような人物を認めるのです。

庶民と紛れて暮らしいれば、当然のことながら、思念も起きますし、感情も湧きます。しかし覚者は、凡夫の如く、それには囚(とらわ)われることがない。思念も感情も湧いた先、綺麗サッパリ消えてしまいます。凡夫は湧いたあと、その余韻(よいん)、反映が残る、継続してしまうのです。

臨済の竜光和尚に対する言い分は、「そんな隠居然とした穴倉禅を私は認めませんよ」ということです。そして、「臨済録」の編者は、臨済は穴倉禅の上を行く本物の禅の体現者なのだ、と謳(うた)いたいのでしょう。

これは感想に過ぎませんが、竜光和尚は、高い地位に長年甘んじて、いざという時、本物の即今を示せなかったのかもしれません。それは臨済が唸(うな)るような即今ということです。本物の即今ではなく、即今を真似たような具合になってしまった。「君(臨済)が言うのは、このことだろう。さっさと礼拝して帰りなさい」と甘く見た。

しかし、臨済は寸毫(すんごう)の差を見破って、「高僧たるもの、もう少し工夫が欲しいですね」と揶揄(やゆ)します。この後、竜光和尚はボロを出します。思念を起こすのです。その仕草がこの文章に現れています。「竜光は驚いたように眼を見張って、嗄(しわが)れた声を上げた」

竜光和尚は、臨済の試験に及第点をもらえませんでした。また、最後に思念を起こしてしまったわけですから、臨済が仕組んだ罠にまんまとハマってしまったとも言えます。

なかなか深いテーマが潜んでいました。じっくりと味わいたいものです。

 

今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。

 

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