【臨済録】やさしい現代語訳・解説 行録5
こんにちは!
今回は、臨済vs.徳山。そして臨済vs.黄檗。
①読み下し文
師、徳山に侍立する次で、山云く、今日困(こんにちつか)る。師云く、這(こ)の老漢、寝語(みご)して什麼(なに)か作(せ)ん。山便ち打つ。師、縄牀(じょうしょう)を掀倒(きんとう)す。
②私訳
臨済が徳山和尚のそばに控えているとき、徳山が言った。
「今日は疲れた」
臨済「この老いぼれ、寝言で何を企(たくら)むか!」
徳山は臨済を打った。
臨済は徳山の坐禅椅子をひっくり返した。
徳山はそこで止めた。
現場検証及び解説
臨済の生年が不祥であるため、確実ではありませんが、徳山の方が年上、先輩と思われます。臨済の喝に対して、徳山は棒の指導で有名です。何かといえば棒で打って弟子を教化したのだとか。恐い人です。
その徳山に挑んでいったわけですから、臨済のなかなか度胸のある人です。ただ、「今日は疲れた」のひと言への反応は、一見難癖を付けたようにも見えます。しかし、そうではありません。
「今日は疲れた」は過去を振り返る言葉です。一日が終わり、ネクタイを解く瞬間を想像してみてください。そして、「今日は疲れた」と呟いてみてください。そうすればわかるはずです。「今日は疲れた」というためには、過去への思念が起こらなければなりません。過去を思うことは、すなわち即今を外れることです。
また、この言葉に素直に反応すれば、「そうですね」となり、過去の話に乗っていってしまい、これもまた、即今を外れます。徳山が意図的にそれを誘ったかどうか不明ですが、臨済は明らかに「誘い」と受け取り、「この老いぼれ、寝言で何を企むか!」となったわけです。
それに対して徳山は得意の棒で即今を示します。臨済も負けてはいません。椅子をひっくり返して即今を示します。徳山と臨済は(法の)兄弟の関係です。上下関係ではありません。即今をめぐって対等なやり取りをしています。どんなに激しくやり合おうとも、兄弟ゲンカのようなもの、遺恨は全く残しません。
ほぼ相打ちの状態で、徳山が打ち止めにします。
今回は短かったので、もうひとついきましょう。
①読み下し文
師、普請(ふしん)して地を鋤(す)く次で、黄檗の来たるを見て、钁(かく)を拄(ささ)えて立つ。黄檗云く、這(こ)の漢、困(つか)るるや。師云く、钁も也(ま)た未だ挙(こ)せず、箇(こ)の什麼(なに)にか困れん。
黄檗便(すなわ)ち打つ。師、棒を接住(せつじゅう)して、一送(いっそう)に送倒(そうとう)す。
黄檗、維那(いのう・役職名。一般の僧を監督指導する僧)を喚(よ)ぶ、維那、我れを扶起(ふき)せよと。
維那、近前(きんぜん)して扶(たす)けて云く、和尚、争(いか)でか這の風顚漢(ふうてんかん)の無礼なるを容(ゆる)し得ん。黄檗纔(わずか)に起(た)つや、便ち維那を打つ。
師、地を钁して云く、諸方は火葬、我が這裏(しゃり)は一時に活埋(かつまい)せん。
後に、潙山、仰山に問う、黄檗維那を打つ、意作麼生(いそもさん)。仰山云く、正賊(しょうぞく)走却(そうきゃく)して、邏蹤(らしょう)の人棒を喫す。
②私訳
臨済が作務(さむ)の時間、畑を耕そうとすると、黄檗がやってきた。それを見て、臨済は鍬を支えにして立った。
黄檗「この男、疲れたのか」
臨済「まだ鍬も振り上げないのに、どうして疲れますか」
黄檗は持っていた棒で臨済を打とうとした。臨済はその棒を受け止め、押し返して黄檗を倒した。
黄檗は倒れたまま「維那! ワシを起こしてくれ」と言った。
維那は近寄り、助け起こしながら言った。
「和尚! どうしてこの非常識な男の無礼を許されるのですか!」
黄檗は立ち上がるや、維那を打った。
臨済は鍬を打ち下ろして言った。
「世間では火葬するが、俺のところでは生き埋めにするのさ」
後に潙山が仰山に問うた。
「黄檗は維那を打ったが、どういうわけなのか」
仰山「真犯人は逃げ去って、追手が罰棒を食らったわけです」
現場検証及び解説
徳山とのやり取りと同じく、黄檗が臨済を即今から外れるよう誘います。禅僧どうしの間では、このような境地の試し合いが常にあったようで、本当に気の抜けない世界です。いつ仕掛けられるかわかったもんではありません。何気ない日常会話からそれは始まるのです。
「この男、疲れたのか」がそれです。うっかり「疲れました」と言えば、過去を振り返ったことになり、即今を逸れてしまいます。
臨済は「鍬も振り上げないのに、どうして疲れますか」と言います。黄檗の誘いをうまく外したように見えます。過去には逸れていません。しかし、「钁も也(ま)た未だ挙(こ)せず」➡「まだ、鍬も振り上げないのに」と未来にやや逸れた発言をしています。これもまた即今を外れているということです。
黄檗はバツ棒を与えようとします。臨済は受けたがりません。これしきのことでバツ棒はないでしょう、それでは何も言えないことになります、という感じです。全くその通りです。即今だけ保っておれ、一切の思念、一切の言語を禁止する、と言われれば、もう黙って過ごすしかありません。しかし、それはそれで、黙っておるのもいかん、というのが禅の世界です。ここが難しいところ。
「私はその棒は受けません」と押し返したところ、黄檗を倒してしまいます。これはわざと転んだ可能性もありますが、テキストからは確定はできません。
黄檗は臨済を咎(とが)めません。そのかわり、維那という僧堂のリーダーに助けを求めます。このリーダーはおそらく未悟です。リーダーはパッと動いて助け起こしますが、「和尚! どうしてこの非常識な男の無礼を許されるのですか!」と言い、立ち上がった黄檗に打たれたます。
リーダーのどこが悪かったのでしょうか。すごく真面目で正義感が強いリーダーに思えるのですが・・・。普通そう思いますよね。
ここでのポイントは、やはり即今です。言っている内容に非があるわけではなく、即今を外れているからバツ棒を食らったのです。リーダーの言葉の中に思念が働いていることを見てください。パッと動いて助け起こすまでは端的で、いいのです。しかし、もし臨済が無礼を働いたと思うのなら、真っ直ぐ臨済に向かえばいい。「どうして和尚は許されるのですか」は余計な思念です。
ここで、禅の「良いはたらき」と「悪いはたらき」の違いについて、お話しておきます。
「良いはたらき」は「思念を起こさず、一瞬の反応で行動すること」です。これは簡単のようで、難しい。日常的に思念が少ない人でないと、できません。「日常的な思念を減らす方法」については、また、別の機会にお話します。このポイントも大変重要です。
「悪いはたらき」は「良いはたらき」の逆です。「思念が起きて、思念の流れで行動を起こすこと」です。これは、いってみれば、一般の人が普通にやっていることです。学校でも「よく考えて行動しなさい」と教えます。
禅では「良く考えた上での行動」というのを大変嫌います。しかし、誤解してほしくないのは、何も考えずに、闇雲に行動すればいい、ということではありません。準備するべきものには考えが必要です。それを全く否定するものではありません。
考えた上での行動は打算的で醜くなりがちです。また、やっている本人も苦しいというのも事実です。澄んだ心からの端的な行動は美しく、ストレスがなく、的を得たものになります。そのことを学んでほしいと思います。
「臨済録」を読む際に重要なのは、即今と脱即今を見分ける力、これだけです。脱即今をやった者はバツ棒を食らう、ただそれだけ、と言っても過言ではありません。
そういう意味では、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで! 絶対に笑ってはいけない」に似ています。笑いは日常茶飯事、笑わせようと仕掛け人があの手この手を尽くします。笑ってしまったらバツ棒を尻に受けるというルール。
「臨済録」では「笑い」が「脱即今」に変わっただけ。師家があの手この手で、脱即今を仕掛けます。それに乗ってうっかり脱即今してしまったら、バツ棒です。そのように見たら、気楽に読めるようになるかもしれません。
臨済の「世間では火葬するが、俺のところでは生き埋めにするのさ」の言葉。
世間というのは、まどろっこしいやり方をする黄檗と維那のこと。火葬は燃やしてから埋葬するという手間があります。臨済に助けを求めず維那を呼んだ黄檗、臨済を直接叱らず黄檗を非難した維那、いずれも回りくどい。
それに引き換え俺(臨済)は、押し倒して事を収めた、どうだ端的だろう、これが生き埋めってやつさ、というところです。臨済が一枚上をいったようです。
潙山と仰山の会話は、やり取りが読み切れなかった人向けのヒントです。真犯人は臨済、追手は維那のこと。
「無門関」でもそうでしたが、重要な僧(覚者)は個人名で語られ、そうでない僧(未悟)は役職名あるいは無名で語られます。
では、今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。