【臨済録】やさしい現代語訳・解説 行録1

2023/09/09
 

 

こんにちは!

今回は、臨済の青年期、修行時代の苦労話。

 

①読み下し文

師(臨済のこと)、初め黄檗(おうばく)の会下(えか)に在って、行業純一(ぎょうごうじゅんいつ)なり。首座(しゅそ)乃(すなわ)ち歎じていわく、是れ後生(こうせい)なりと雖(いえど)も、衆と異なること有りと。

遂(つい)に問う、上座此(ここ)に在ること多少時(いくばく)ぞ。師云く、三年。首座云く、曾(か)つて参問するや。師云く、曾つて参問せず。知らず、箇(こ)の什麼(なに)をか問わん。首座云く、汝何ぞ去(ゆ)いて、堂頭(どうちょう)和尚に、如何なるか是れ仏法的的の大意と問わざる。

師便(すなわ)ち去いて問う。声未だ絶えざるに、黄檗便ち打つ。師下り来たる。首座云く、問話(もんな)作麼生(そもさん)。師云く、某甲(それがし)、問声(もんしょう)未だ絶えざるに、和尚便ち打つ、某甲会せず。首座云く、但(た)だ更に去いて問え。師又去いて問う。黄檗又打つ。是(かく)の如く三度問を発して、三度打たる。

師来たって首座に白(もう)して云く、幸いに慈悲を蒙(こうむ)って、某甲をして和尚に問訊(もんじん)せしむるも、三度問を発して三度打たる。自ら恨む、障縁(しょうえん)あって深旨(じんし)を領(りょう)せざることを。今且(しばら)く辞し去らん。首座云く、汝(なんじ)若(も)し去らん時は、須(すべか)らく和尚に辞し去るべし。師、礼拝して退く。

首座先に和尚の処に到って云く、問話底(もんなてい)の後生、甚(はなは)だ是れ如法(にょほう)なり。若し来たって辞せん時は、方便して他(かれ)を接せよ。向後(こうご)、穿鑿(せんさく)して一株の大樹と成らば、天下の人の与(ため)に陰涼(いんりょう)と作(な)り去らん。

師去いて辞す。黄檗云く、別処に往き去ることを得ざれ。汝は高安灘頭(こうあんだんとう)の大愚(たいぐ)の処に向って去(ゆ)け、必ず汝が為に説かん。

 

②私訳

臨済が黄檗門下にいた頃、その修行ぶりは純粋でひたむきだった。首座(僧堂のリーダー)は感心して言った。「奴は若いが他の者とは違ったところがある」

首座はあるとき臨済に問うた。

「そなたはここに来てどれくらいになる」

臨済「三年です」

首座「黄檗和尚に参問したことはあるか」

臨済「参問したことはありません。何を問うていいかわかりません」

首座「お前、どうして黄檗和尚に、仏法の根本義を問うてみないのだ」

臨済はすぐに黄檗和尚のところに行って、そのように問うた。

まだ言い終わらないうちに、黄檗和尚は臨済を激しく打った。

臨済が戻ってきて、首座が聞いた。

「問答はどんなふうだった?」

臨済「私がまだ言い終わらないうちに、打たれました。何もわかりませんでした」

首座「もう一度行って問うてこい」

臨済は行って問うた。黄檗和尚はまた臨済を激しく打った。

このようにして、三度問うて三度打たれた。

臨済は首座に言った。

「かたじけなくもお心添えにより、黄檗和尚に参問させていただきましたが、三度問い三度打たれました。悔しいですが、私にまだ至らぬところがあって、法の深い意味が解せないようです。しばらくここを離れようと思います」

首座「去るのなら、去る前に黄檗和尚に挨拶してから行きなさい」

臨済は首座に礼拝して退いた。

首座は先に黄檗和尚の所に行って言った。

「先ほど参問に来た若者は大変法に適った者です。もし暇乞いに来ましたら、どうかご配慮くださいますようお願いいたします。将来きっと自身を鍛え上げ、一株の大樹となり、天下の人々が憩う涼しい木陰となりましょう」

はたして臨済は暇乞いに来た。黄檗和尚は言った。

「他へ行ってはならん。まず高安灘頭の大愚のところに行ってみよ。必ずやそなたのために説いてくれるだろう」

(注)文中の師とは臨済のこと。また、臨済と表記していますが、正確に言えば「後に、臨済と名乗り指導者となる青年」です。

 

現場検証及び解説

 

ポイントは「三度問い三度打たれた」という点です。この打擲(ちょうちゃく・たたくこと)が一体何を意味するのかわかったら、内容を把握したことになります。わからなければ、置いてけ堀を食らわされます。

「臨済録」の解釈は、この打擲の意味が非常に大切で、大きく分けると三種類の打擲(今後、打擲を「棒」と表記しましょう)があります。

●バツ棒 ➡ その名の通り、ダメ出しの棒です。

●ほめ棒 ➡ 「良し!」という棒。お前を認めたぞ、という棒。

●即今棒 ➡ 「仏法とは即今だ!」という、教化のための棒です。ビシッと打たれたら、ハッとしますね。そのハッが即今です。即今を教えるための棒。

ですから、バツ棒にも「即今だぞ!」という意味が含まれていますし、ほめ棒にも「その調子で即今を継続せよ!」という励ましの意味が含まれています。

 

以上三つの棒を紹介しました。あらかじめお断りしておきますが、これは禅の公式の用語ではありません。検索しても出てきません。しかし、バツ棒は耳にしたことはあります。ほめ棒もあったかな・・・でも私の造語かもしれません。即今棒は、今さっき造りました(笑)。

 

即今というのがわかりにくいかもしれませんので、説明しておきます。

即今は誰にでもあるポイント(=点)です。しかし、心の観察(瞑想)をするとわかってきますが、人は即今から逸(そ)れる傾向があります。言い換えれば、思念がやみません。思念とはすなわち、過去のことを思い出したり、未来のことを案じたりすることです。それが即今から逸れるということです。思念は止めようとしても止みません。試してみてください。余計にひどくなりますから(笑)。

では逆に、即今状態とはどのような状態のことでしょうか。例を挙げてみます。

地上100メートルの綱渡りを想像してください。想像したくないですか? ないですね(笑)。じゃあ、10メートル、地上付近にネットを張りましょう。距離は10メートルにしましょう。

最初は、渡ろうと踏み出すごとに、意図が強く働きます。つまり、何とかコントロールしようという思念が働きますので、ぎこちなくなります。バランスが取れなくて、何度か落ちるでしょう。しかし、何度か試みるうちに、コツがわかってきて、身体がそれを覚えていきます。

ネットが張られているとはいえ、落ちたくはありません。渡りきるまで止めさせてもらえませんから(今、そういう設定にしました)、必死になってチャレンジします。そうすると、自然に思念が止み、行為に集中します。それが即今状態です。

もうひとつ例をあげましょう。私の持病でもあるうつ病ですが、この病気は戦闘区域には存在しないそうです。そもそも戦闘状態にあって、うつ状態で素早く動けない人は、残念ですが、生き残れる可能性は少ないと思われます。また、うつ状態にあっても、生きるために必死に動いているうちに、治ってしまうのだと思います。

これは私の経験からも、軽度のものならそうなるだろうと思います。ただ、誤解なきようにお断りしておきますが、うつ病治療のために戦闘状態の場に行くべきだ、というような主張をしているわけではありません。私だって、「お前のうつ病が治るよう戦場に行きなさい」と言われても、それはお断りします。

うつ病は「考えすぎ」の病です。戦場のような超タイトな状況に追い込まれ、考える余裕さえなくなれば、強制的に即今状態になり、症状は止むであろう、ということを言っています。しかし、人間は安全を好みます。安全を得ようとし、安全を得てしまうと、今度は思念することが自然に始まってしまいますので、再びうつ症状がでてしまうかもしれません。経験はありませんが、本式の僧堂は戦闘状態に似たものなのかもしれません。これはこれで理があるわけです。

さて、即今状態がイメージできましたでしょうか。もうひとつだけ、エピソードを付け加えておきましょう。登山家の野口健さんの話です。

登山家にとって雪崩は、命にかかわる大問題です。極力それを避けて山に登ります。野口さんも何度も危険な目に合われました。youtubeの動画で拝見した時、次のようなことをおっしゃっていました。

「ある時気配を感じ、上を見ると巨大な雪崩だった。あ、こりゃもういかん、と思った。恐怖は感じなかった。不思議なもので、大きな雪崩だと一瞬で覚悟が決まるので怖くない。怖いのは小さな雪崩で、逃げられると思って走って逃げる時、そういう時が一番怖い」

この巨大な雪崩の時は、仲間とスクラムのようなものを組み、運良く助かったらしいです。

前者は即今状態、思念が起こっていません。スクラムを組んだのは一瞬の機転、ほぼ反射神経のなせる業です。そこには思念はありません。後者の場合は、思念が起きる余裕があります。なので、思念が起こり、それに対する感情、つまり恐怖が起こります。そういうことです。

 

さて、テキストに戻りましょう。黄檗和尚の三度にわたる臨済への棒は、三つのうちのどの棒でしょうか。正解は三番目の即今棒、教化棒です。「仏法の大意は!」に対して、真っ直ぐに「即今である!」という教えを棒を通じて行っていたのです。

しかし、臨済青年は未だ機が熟していなかったようで、わかりませんでした。一度目の棒のあと首座に「某甲会せず」と言っています。ここの訳は迷いました。最初は「何がなんだかわかりません」と訳していました。質問が終わらないうちに打たれたわけだから、自分の態度がまずかったのか何なのか、よくわからないままに打たれた、と解釈したのです。そうではないようです。

三度打たれた後、首座にこう言っています。「障縁(しょうえん)あって深旨(じんし)を領(りょう)せざることを」訳は「私にまだ至らぬところがあって、法の深い意味が解せないようです」。自分の態度に対するバツ棒ではなく、何かしら法の教えを暗示された棒であることはわかっていた。しかし、それが何なのかわからなかった。そんなところだろうと思います。

質問の途中で打つという行為には、禅のお得意の「不立文字」が込められているのでしょう。不立文字と即今、そのあたりを黄檗和尚は端的に、自身の体ごとぶつけるようにして、臨済青年に教えていた、こう見ることがきるでしょう。

 

さて、次回はいよいよ臨済青年の悟り体験です。楽しみです。ご一緒ください。よろしくお願いします。

 

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