【臨済録】やさしい現代語訳・解説 はじめに&臨済慧照禅師塔記

2023/09/09
 

 

こんにちは!

今日から「臨済録」を一緒に読んでいきましょう。よろしくお願いします。

 

はじめに

 

「無門関」に続いて「臨済録」を私なりに訳し、解説していこうという試みです。

謎解き「無門関」の巻頭でも申し上げましたが(と思うが・・・大分記憶が薄れている、読み直すのも面倒)、禅の修行に行き詰まり、テーラワーダ仏教の修行法に逸れ、さらにヒンズー教、非二元の教えと読み進めて、ある程度の理解を得た(と思っている)人間の言説です。

あらためて申し上げるまでもありませんが、日本禅宗の正統の見解ではありません。いわば亜流、素人見解に過ぎません。ただ、至極真面目にこのことに取り組んでいます。瞑想修行をしながら、テキストを読み、それについて熟考し、こう読めるのではないか、という考えを皆さんに提示します。

そんなにたくさん禅に関する文献を読んだわけではありませんが、それらはどれも難解で、その読後感は「わかったような、わからんような」不思議な気分にさせられました。いらち(関西弁でせっかちの意)の私は、「だから、一体何なんだ!」と何度も本を投げ出しました。ですので、読者の皆さんには、そういう思いだけはさせないつもりです。

取り組みの方法について、お知らせしておきます。

テキストは岩波文庫「臨済録」(入矢義高訳注)を用いました。私訳にあたって、入矢義高先生の学識に大変お世話になったことをここに記し、お礼申し上げます。

ただ、訳する順番を逆にしました。というのも、岩波文庫ではどういうわけか、時系列が逆になっています。晩年の臨済禅師が先に来て、最後に若い時代、悟りを開いた経過が記されています。何か理由があるのかもしれませんが、逆の方が私はいいと思うので、そうします。

具体的に言うと、「塔記」「行録」「勘弁」「示衆」「上堂」「序」の順で訳していきます。入矢先生によると、元々はこの区分はなかったそうです。巻頭の凡例にそう書かれています。

「無門関」と同じく、①読み下し文、②私訳、③現場検証及び解説の順で述べます。

では、さっそく、始めましょう。

 

臨済慧照禅師塔記

 

①読み下し文

師、諱(いみな)は義玄。曹州南華の人なり。俗姓は邢氏(けいし)。幼にして頴異(えいい)なり、長じて孝を以って聞ゆ。落髪受具(らくはつじゅぐ)するに及んで、講肆(こうし)に居(きょ)し、精(くわ)しくビ尼を究め、博(ひろ)く経論を賾(さぐ)る。俄かに歎じて曰く、此れは済世の医方なり、教外別伝の旨に非ずと。

即ち衣を更(か)えて遊方す。首(はじ)め黄檗に参じ、次で大愚に謁す。其の機縁語句は行録(あんろく)に載せたり。既に黄檗の印可を受け、尋(つ)いで河北に抵(いた)る。鎮州城の東南の隅(ぐう)、滹沱河(こだが)の側に臨んで小院に住持す。其の臨済は因って名を得たり。

時に普化は先に彼(かしこ)に在って、佯狂(ようきょう)として衆に混ず、聖凡測(はか)ること莫し。師至れば即ち之を佐(たす)く。師、化を旺(さか)んにするに正(あた)って、普化、全身脱去す。乃ち仰山小釈迦の縣記(けんき)に符(かな)えり。適(たまた)ま兵革に丁(あた)って、師即ち捨て去る。

大尉黙君和、城中に於いて宅を捨てて寺と為し、亦た臨済を以って額と為して、師を迎えて居らしむ。後に衣を払って南邁(なんまい)して、河府に至る。

府主王常侍、延(ひ)くに師の礼を以ってす。住すること未だ幾ばくならざるに、即ち大名府の興化寺に来たって東堂に居す。

師、疾無くして、忽ち一日衣を摂(おさ)めて拠坐(こざ)し、三聖と問答し畢(おわ)って、寂然(じゃくねん)として逝(ゆ)く。

時に唐の咸通八年丁亥、孟陬の月十日なり。門人、師の全身を以って塔を大名府の西北隅に建つ。勅して慧照禅師と諡(おくりな)し、塔を澄霊と号す。合掌稽首(けいしゅ)して、師の大略を記す。

(注)2行目のビ尼のビは「田」に「比」という漢字ですが、パソコンの文字に見当たらないため、カタカナ表記にしました。

 

②私訳

師の本名は義玄。曹州南華の人である。俗姓は刑氏。幼少期より秀才で、長じては孝行息子として知られていた。剃髪(ていはつ)して仏門に入ると、経論講釈の塾に在籍して、戒律を綿密に研究し、広く経論を学んだ。しかし、ある日ため息をついて、言った。「これは世間の人々を救うための医療にすぎない。仏陀が教えた教外別伝とは違うものだ」

そこで、旅支度をして、遊行に出た。最初は黄檗に参じ、次に大愚に謁見した。そのときのやり取りは、行録に詳しい。

黄檗より印可を受け、その後河北に到り、鎮州城の東南、滹沱河のそばの小さな寺の住職になった。その寺を臨済と呼んだのは、地名に因ったのである。

普化は先にこの地に来ていて、狂ったふりをして衆僧に紛れ込んでいた。そのありさまは聖人なのか凡人なのか、見分けがつかなかった。師が赴任すると、これを助けた。師の教化が盛んになると、全身脱去してしまった。小釈迦たる仰山の予言が当たったわけだ。その後戦乱があって、師はこの寺を立ち退いた。

黙君和という武将が城中の自宅を喜捨して、そこを寺とし臨済と名付けて師を迎えた。後にここも引き払って、河府に到った。

府主の王常侍が師を迎え入れた。そこに移居して間もなく、大名府の興化寺の東堂に住んだ。師は持病のない人であったが、ある日法衣を着け居ずまいを正し、三聖と問答し終わると、静かに逝去された。

唐の咸通8年丁亥の1月10日のことだった。門人たちは師の遺体を納めた塔を、大名府の西北の隅に建てた。天子様からは慧照禅師の称号を頂戴し、塔を澄霊と号した。合掌礼拝し師の生涯の概観を記した。

 

③現場検証及び解説

ここは現場検証するまでもなく、わかりやすい臨済禅師の生涯の概略です。

ただ、私が引っかかるのは次の文章です。

「これは世間の人々を救うための医療にすぎない。仏陀が教えた教外別伝とは違うものだ」

人々を救う医療としての仏教では、なぜダメなのでしょうか。お釈迦さまは、人々を救う教えを垂れたわけではないのでしょうか。教外別伝の、選ばれた人だけに伝える、何か摩訶不思議な教えが「本当の仏教」なのでしょうか。皆さんはどう感じられるでしょうか。実は私はそうは思わないのです、困ったことに。

しかし後に、第二の釈迦と呼ばれる程の禅僧として名を馳せることになる青年は、「本当の仏教」を探しに旅に出ます。そして、黄檗和尚に出会い見事に覚醒し、教外別伝の仏教を会得したのです。そのあたりの消息は「行録」に詳しく記されているようなので、後ほどネッチリ見ていくことにいたしましょう。

もう一点気にかかるのは、普化(ふげ)という禅僧の存在です。聖俗見分けがたい人物で、いかにも禅が好む破天荒なキャラクターです。このような人物がいたことは事実でしょうし、魅力的でもありますが、悟りの状態を特殊のものに祀り上げ、読む人に誤解を与える危険があることも、指摘しておきたいと思います。

悟りを「特殊な状態を獲得することだ」とするのは誤解です。悟りは「原初の状態、自然な状態に戻る」ことです。「臨済録」が前者を主張しているわけではありませんが、奇妙な行動の強調は、ややもすると、そのような印象を与えかねない、そのことを危惧するのです。

 

では、次回より「行録」を一緒に読んでいきましょう。

 

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