【無門関】やさしい現代語訳・解説 第47則「兜率三関」

2023/10/04
 

 

こんにちは!

今回は、死んだらどうなる?がテーマです。

 

①本則

兜卒悦(とそつえつ)和尚、三関を設けて学者に問う、

「撥草参玄(はっそうさんげん)は只だ見性を図(はか)る。即今上人の性、甚(いず)れの処にか在る」。

「自性(じしょう)を識得(しきとく)すれば方(まさ)に生死を脱す。眼光(がんこう)落つる時、作麼生(そもさん)か脱せん」。

「生死を脱得(だっとく)すれば便ち去処を知る。四大分離して甚(いず)れの処に向かってか去る」。

私訳

兜卒悦和尚は学僧に3つの質問をし、点検したそうだ。

①「各地を遊行遍歴し教えを乞うのは、ただただ見性成仏したいからだ。即今あなたの本性はどこにあるのか」

②「自身の本性がわかれば、生死を脱すという。眼光落ち死ぬるとき、どうやって脱するのか」

③「生死を脱すれば、去る場所を知るということだ。肉体が壊れたら(あなたは)どこに去るのか」

 

②評唱

無門曰く。若(も)し能(よ)く此の三転語(さんてんご)を下(くだ)し得ば、便ち以て随所に主と作(な)り、縁に遇うて即ち宗なるべし。其れ或いは未だ然らずんば、麁飡(そさん)は飽き易く、細嚼(さいしゃく)は飢え難し。

私訳

もしこの3つの問いにズバリ答えることができれば、どこに行って主人公、何をやっても仏法に叶うのだ。あるいは未だこれがわからないなら、ガツガツ喰うより、しっかり噛んで食べることだ。

 

③頌

一念普観無量劫 無量劫事即如今 如今覰破箇一念 覰破如今覰底人

私訳

ただ今ここに広がるこの一念は永遠なり。永遠であること、それが即今。今この一念を見破れば、見破る人を見破るが如し。

 

現場検証及び解説

【本則】

無門先生が言っていることは、何も難しいことではありません。誰にでもある即今が仏性だということ、教えはこれに尽きるのです。

では、なぜ多くの人がこのことに気がつかないのか。それは、思考が即今を覆うからです。瞑想修行をすれば、そのことが徐々にわかってきます。

即今が私たちの本性です。だから、①「即今あなたの本性はどこにあるのか」の答えは、「ここです」になります。どこかに探しに行く必要はありません。何かをする必要さえありません。

②「自身の本性がわかれば、生死を脱すという。眼光落ち死ぬるとき、どうやって脱するのか」

これは、「生死を脱す」という言葉がおかしいです。私たちの本来の面目は生まれたことがないからです。生まれたことがないものは死にはしません。般若心経の「不生不滅」はそのことを言っています。もちろん、肉体は死にます。肉体は生まれ、そして死にます。ですが、私の本来の面目は生まれたことがない、したがって、死ぬこともない、そういうことです。

そんな、バカな! と思われるでしょうね。私も最初はそう思いました。しかし、覚者が言っていることは、そういう話です。

一般に物質から生命が生まれたと思われていますが、実は逆のようです。つまり、生命(意識・本来の面目)が先にあり、それが顕現化(現象化)するために肉体を創り出した、ということのようです。

科学が生命現象の解明はできても、生命そのものを創り出せないのは、そのへんの事情によるのではないかと、私は勝手に想像しています。

なので、②への答えは「脱する必要はありません」でいいのではないでしょうか。

ヒンズー教の覚者、ラハナ・マハルシは臨終の際、信者の女性に涙ながら「行かないでください!」と懇願されました。

マハルシの答えは、こうでした。

「どこに?」

したがって、③の質問に答えるとすれば、「ここです」でいいのではないでしょうか。

 

【評唱】

「ガツガツ喰うより、しっかり噛んで食べることだ」は何かを暗示しているのでしょう。私は「吟味」という言葉を連想しました。

普段私たちは物事を吟味しません。他人の言葉を鵜吞みにすることが多いです。ガツガツ喰らいます。習い性が身についています。素直にできています。素直はいいこともありますが、それだけでは真理にたどり着くことは、なかなか厳しいのです。

お釈迦さまはこう言いました。

「私のことを尊敬するからといって、私の言うことを鵜吞みにしないでほしい。あなた達は金を本物かどうか調べるとき、どうしますか? 削ってみたり、溶かして見たりするでしょう。そのように私の教えを取り扱ってほしい」

 

【頌】

即今は永遠です。昔の人、たとえば江戸時代の人も、即今を生きていました。なぜなのかわかりませんが、そのことが私たちにはわかります。

100年後の誰かも即今を生きているに違いない、という確信が私たちにはあります。不思議です。

しかし、それこそが「即今は永遠である」という証なのではないかと、私は思います。

「今この一念を見破れば、見破る人を見破るが如し」というのは、即今こそが私たちの本質であり、それが永遠であることが感知されれば、「見破る」という事態は起こっていても、見破る「人」はいない、と見破れるだろうということ。

個人はいません。即今が永遠に肉体を通じて生きているだけ。それが真実なのです。

今回はこの辺で。

 

第48則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第48則「乾峰一路」

 

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