【無門関】やさしい現代語訳・解説 第47則「兜率三関」
こんにちは!
今回は、死んだらどうなる?がテーマです。
①本則
兜卒悦(とそつえつ)和尚、三関を設けて学者に問う、
「撥草参玄(はっそうさんげん)は只だ見性を図(はか)る。即今上人の性、甚(いず)れの処にか在る」。
「自性(じしょう)を識得(しきとく)すれば方(まさ)に生死を脱す。眼光(がんこう)落つる時、作麼生(そもさん)か脱せん」。
「生死を脱得(だっとく)すれば便ち去処を知る。四大分離して甚(いず)れの処に向かってか去る」。
私訳
兜卒悦和尚は学僧に3つの質問をし、点検したそうだ。
①「各地を遊行遍歴し教えを乞うのは、ただただ見性成仏したいからだ。即今あなたの本性はどこにあるのか」
②「自身の本性がわかれば、生死を脱すという。眼光落ち死ぬるとき、どうやって脱するのか」
③「生死を脱すれば、去る場所を知るということだ。肉体が壊れたら(あなたは)どこに去るのか」
②評唱
無門曰く。若(も)し能(よ)く此の三転語(さんてんご)を下(くだ)し得ば、便ち以て随所に主と作(な)り、縁に遇うて即ち宗なるべし。其れ或いは未だ然らずんば、麁飡(そさん)は飽き易く、細嚼(さいしゃく)は飢え難し。
私訳
もしこの3つの問いにズバリ答えることができれば、どこに行って主人公、何をやっても仏法に叶うのだ。あるいは未だこれがわからないなら、ガツガツ喰うより、しっかり噛んで食べることだ。
③頌
一念普観無量劫 無量劫事即如今 如今覰破箇一念 覰破如今覰底人
私訳
ただ今ここに広がるこの一念は永遠なり。永遠であること、それが即今。今この一念を見破れば、見破る人を見破るが如し。
現場検証及び解説
【本則】
無門先生が言っていることは、何も難しいことではありません。誰にでもある即今が仏性だということ、教えはこれに尽きるのです。
では、なぜ多くの人がこのことに気がつかないのか。それは、思考が即今を覆うからです。瞑想修行をすれば、そのことが徐々にわかってきます。
即今が私たちの本性です。だから、①「即今あなたの本性はどこにあるのか」の答えは、「ここです」になります。どこかに探しに行く必要はありません。何かをする必要さえありません。
②「自身の本性がわかれば、生死を脱すという。眼光落ち死ぬるとき、どうやって脱するのか」
これは、「生死を脱す」という言葉がおかしいです。私たちの本来の面目は生まれたことがないからです。生まれたことがないものは死にはしません。般若心経の「不生不滅」はそのことを言っています。もちろん、肉体は死にます。肉体は生まれ、そして死にます。ですが、私の本来の面目は生まれたことがない、したがって、死ぬこともない、そういうことです。
そんな、バカな! と思われるでしょうね。私も最初はそう思いました。しかし、覚者が言っていることは、そういう話です。
一般に物質から生命が生まれたと思われていますが、実は逆のようです。つまり、生命(意識・本来の面目)が先にあり、それが顕現化(現象化)するために肉体を創り出した、ということのようです。
科学が生命現象の解明はできても、生命そのものを創り出せないのは、そのへんの事情によるのではないかと、私は勝手に想像しています。
なので、②への答えは「脱する必要はありません」でいいのではないでしょうか。
ヒンズー教の覚者、ラハナ・マハルシは臨終の際、信者の女性に涙ながら「行かないでください!」と懇願されました。
マハルシの答えは、こうでした。
「どこに?」
したがって、③の質問に答えるとすれば、「ここです」でいいのではないでしょうか。
【評唱】
「ガツガツ喰うより、しっかり噛んで食べることだ」は何かを暗示しているのでしょう。私は「吟味」という言葉を連想しました。
普段私たちは物事を吟味しません。他人の言葉を鵜吞みにすることが多いです。ガツガツ喰らいます。習い性が身についています。素直にできています。素直はいいこともありますが、それだけでは真理にたどり着くことは、なかなか厳しいのです。
お釈迦さまはこう言いました。
「私のことを尊敬するからといって、私の言うことを鵜吞みにしないでほしい。あなた達は金を本物かどうか調べるとき、どうしますか? 削ってみたり、溶かして見たりするでしょう。そのように私の教えを取り扱ってほしい」
【頌】
即今は永遠です。昔の人、たとえば江戸時代の人も、即今を生きていました。なぜなのかわかりませんが、そのことが私たちにはわかります。
100年後の誰かも即今を生きているに違いない、という確信が私たちにはあります。不思議です。
しかし、それこそが「即今は永遠である」という証なのではないかと、私は思います。
「今この一念を見破れば、見破る人を見破るが如し」というのは、即今こそが私たちの本質であり、それが永遠であることが感知されれば、「見破る」という事態は起こっていても、見破る「人」はいない、と見破れるだろうということ。
個人はいません。即今が永遠に肉体を通じて生きているだけ。それが真実なのです。
今回はこの辺で。
第48則でお会いしましょう。
次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第48則「乾峰一路」