【無門関】やさしい現代語訳・解説 第43則「首山竹篦」

2023/10/02
 

 

こんにちは!

今回は、竹篦(しっぺい)という師家の道具をご覧ください。

 

①本則

首山(しゅざん)和尚、竹篦(しっぺい)を拈(ねん)じて衆に示して云く、「汝等諸人、若し喚(よ)んで竹篦と作さば則ち触る。喚んで竹篦と作(な)さざれば則ち背く。汝諸人、且(しばら)く道(い)え、喚んで甚麼(なん)とか作さん」。

私訳

首山は竹篦を持ち、衆僧に示して言った。「お前たち、もしこれを竹篦と呼べば(俗世間に)触れることになる。竹篦と呼ばなければ(俗世間に)背くことになる。さあ、言ってみよ。なんと呼ぶのか!」

 

②評唱

無門曰く。喚んで竹篦と作さば則ち触る。喚んで竹篦と作さざれば則ち背く。有語なることを得ず、無語なることを得ず。速かに道え、速かに道え。

私訳

竹篦と呼べば触れる。竹篦と呼ばなければ背く。言ってもダメ、言わなくてダメ! さあ言え、さあ言え!

 

③頌

拈起竹篦 行殺活令 背触交馳 仏祖乞命

私訳

竹篦を持ち出し、「活かすのか殺すのか!」と迫ったのだ。背くと触れるが駆け比べ。仏祖も命乞い。

 

現場検証及び解説

【本則】

この則は、第40則の「趯倒浄瓶」と似ています。モノが浄瓶から竹篦に変わっただけ。竹篦というのは岩波文庫の注によると、「師家が学人を接得する道具。長さ60センチから1メートル。割竹を弓状に曲げ籐を巻き漆を塗って作る」とあります。最上段のアイキャッチ画像をご覧ください。

第40則では、浄瓶を蹴倒してその使用法を無化した潙山が認められました。浄瓶のときも「浄瓶とは呼ぶな。何と呼ぶか」の問いかけに「蹴倒し」ですから、「呼ぶ」以外のアプローチも許されそうです。それなら、あれこれ言葉で言わないで、パッと竹篦を取り、バキッと折ってしまえばよさそうです。

「竹篦と呼べば(俗世間に)触れる」というのは、逆から言えば「即今に背く」ということです。なにしろ、即今は無時空間のポイントですから、言葉が入る隙間はありません。ですが、即今に留まったままだと、日常生活が送れません。竹篦が必要なとき、「おい、そこの竹篦取ってくれ」とは言えないのですから。

即今を守ったままでいるということは、普通の日常生活が送れないということです。完全に隠者となって山奥で暮らすことになります。それは世間に背くことになりよろしくない、と禅は考えます。では、禅的にはどう生きるのが正解なのでしょうか。それに対しては禅は何も答えてはくれません。

 

【評唱】

無門先生は、本則の内容を掲げて、さらに激しく私たちに迫ってきます。「言ってもダメ、言わなくてもダメ」。

禅僧の目的はこの難問に答えを出させることではありません。八方塞がりの状態に学人を追い込み、即今を自覚させることが本当の目的です。思考停止状態に追い込み、即今を深く実感させるために難問を出すのです。

時空間が仮に平面だとすると、即今はそれに垂直に突き刺さる軸のようなものです。平面上をウロウロすることで、垂直軸を知ることはできません。平面上のどの方向に踏み出してもダメだ!というときに初めて垂直軸に気づきます。

禅僧が難問を突き付けるのは、学人がにっちもさっちもいかなくなり窮することで、垂直軸たる即今に気づくためなのです。

 

【頌】

「活かすのか殺すのか!」の「活かす」はすなわち俗世間と交わることです。そうすると、即今からは遠ざかります。「殺す」は俗世間と交わらず即今を保つことです。

俗世間に背くのか触れるのか、実際はハッキリ分かれているわけではないと思います。20%程度触れ、80%は即今を保っている、というようなこともあるのだと考えます。必要なときだけ触れ、後腐れなくパッと手放して執着しない、それが禅的な在り方です。爽やかな態度です。そのようにありたいと切に願います。

今回はこの辺で。

 

第44則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第44則「芭蕉拄杖」

 

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