【無門関】やさしい現代語訳・解説 第41則「達磨安心」

2023/10/02
 

 

こんにちは!

今回は、痛い話です。

 

①本則

達磨面壁す。二祖雪に立つ。臂(ひじ)を断(き)って云く、「弟子は心未だ安からず。乞う、師安心せしめよ」。磨云く、「心を将(も)ち来れ、汝が為に安んぜん」。祖云く、「心を覓(もと)むるに了(つい)に不可得なり」。磨云く、「汝が為に安心し竟(おわ)んぬ」。

私訳

達磨大師が壁に向かって坐禅しているところに、雪のさなか、慧可(えか。後に二祖となる男)が臂を斬り落した姿で立ち、言った。「あなたの弟子である私は、未だ安心に至りません。お願いです、先生。安心に導いてください」達磨大師は言った。「その心とやらを持ってこい。そうすればお前を安心させてやる」(しばらくそのことを探究したあと)慧可はやってきて言った。「心を探しましたがそれを(対象物として)得ることはできませんでした」達磨大師は言った。「ほれ、お前を安心させてやったぞ」

 

②評唱

無門曰く。鈌歯(けっし)の老胡(ろうこ)、十万里の海を航して特特として来る。謂つべし是れ風無きに浪を起こすと。末後に一箇の門人を接得して、又た却って六根不具。咦(いい)。謝三郎四字を識らず。

私訳

歯抜けの老外人(達磨大師)、十万里を航海してわざわざやって来た。これは風もないのに浪を起こすようなものだといえる。悟った後に一人の門人を指導し、六根絶やして不具にしてしまった。馬鹿野郎! 謝三郎は銭の四文字も不識であるぞ。

 

③頌

西来直指 事因囑起 撓聒叢林 元来是你

私訳

達磨の直指。口は災いの元。叢林(僧林)未だ騒がせる。元はといえばあなた(達磨大師)のせい。

 

現場検証及び解説

【本則】

無門関の中で、心という言葉は二つの意味で使われているように思います。

ひとつは、思考、イメージ、感覚などの現象を心と言う場合です。これらは、現象界にありますので、変化します。したがって、夢まぼろしのような存在といえます。観察可能な対象物は皆これです。この場合は心の内容を指しています。

もうひとつは、私たちの認識の鏡を心とする場合です。こちらは変化しません。永遠の即今のことです。本シリーズで、たびたび比喩として用いている白スクリーンのことです。

繰り返すと、白スクリーンがまずあって、これが本来の面目、仏性、即今です。そして、その白スクリーンの上に映る映像が現象です。白スクリーンと映像というように、二つに分けて説明しましたが、これらは別々のものではありません。コインの表裏のようなもの、ひとつのものです。

ですから本則で、どちらの心とするのかで解釈が異なります。私は後者をとって、上記のように訳しました。つまり、対象物とできない本来の面目を心としました。対象物にはならない(なにしろ、私たち自身のことですから)ものは探しても見つからない、というわけです。

不安という心の内容は浮かんでは消え、浮かんでは消えするものです。これらの感情が私たち自身だとすれば、安心は得られません。しかし、それを観察する側にポイントを移し、そこに留まることができれば、それが私たちの本来の面目であるという理解が起こり、安心が得られます。

実際にはそう簡単にはいきませんが、理屈としてはそうです。

達磨大師の示唆を受けて、慧可は内面を探り、そのような理解を得たのだと思います。

 

【評唱】

無門先生は素直にほめません。始祖である達磨大師をつかまえて、歯抜けの老外人呼ばわりするとは!

「六根絶やして不具にしてしまった」というのは、眼耳鼻舌身意を絶やすという意味と、慧可が腕を切ってまでして達磨大師に教えを請うたという逸話を踏まえて、そう言っているのでしょう。

「謝三郎は銭の四文字も不識であるぞ」の謝三郎は歴史上の人物で、銭の上の四文字も読めなかったのだそうです。ここでの謝三郎は達磨大師のこと。原文では「謝三郎不識四字」とあります。達磨大師は武帝に「お前は何者だ」と問われ、「不識」と答えたという逸話があります。おそらく、それと引っ掛けているのでしょう。

 

【頌】

評唱の「風もないのに浪を起こすようなもの」という表現もそうですが、ここでも「達磨大師め、いらんことをしおってからに」といわんばかりの言説です。

「達磨の直指」とありますので、達磨大師は白スクリーンの方の心を指したのだとわかります。変化する方の心を指しても意味はありません。禅は常に仏性だけを直指し続けます。

次いで、不立文字のテーマが主張されます。

白スクリーンは誰にでもあるものですが、身近でありすぎるが故にわかりにくく、探求しだすと非常に厄介なものです。人間の中の何割かはこのことに興味を抱き、「みじめな探求者」に成り下がるとのこと。ラメッシ・バルセカール氏(ヒンズー教の覚者)がそう言っています。

達磨大師は「寝た子を起こしたのだ」と無門先生は言いたいようです。

今回はこの辺で。

 

第42則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第42則「女子出定」

 

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