【無門関】やさしい現代語訳・解説 第40則「趯倒浄瓶」

2023/09/29
 

 

こんにちは!

今回は、瓶をめぐるバトル。

 

①本則

潙山(いさん)和尚、始め百丈(ひゃくじょう)の会中(えちゅう)に在って典座(てんぞ)に充(あ)たる。百丈、将(まさ)に大潙(だいい)の主人を選ばんとす。乃(すなわ)ち請じて首座と同じく衆に対して下語(あぎょ)せしめ、出格の者往くべしと。

百丈、遂に浄瓶(じんびん)を拈(ねん)じ、地上に置いて問いを設けて云く、「喚(よ)んで浄瓶(じんびん)と作(な)すことを得ず、汝喚んで甚麼(なん)とか作さん」。首座乃ち云く、「喚んで木揬(ぼくとつ)と作すべからず」。

百丈、却(かえ)って山に問う。山乃ち浄瓶を趯倒(てきとう)して去る。百丈笑って云く、「第一座、山子(さんす)に輸却(ゆきゃく)せらる」と。因って、之れに命じて開山と為(な)す。

私訳

潙山は最初、百丈和尚の所にいて、典座(食事係長)をしていた。百丈和尚は、後に大潙山となる寺院の住職を選ぼうとしていた。首座(僧堂のリーダー)だけでなく皆に呼びかけてチャンスを与え、出来る奴行くべし、というわけだ。百丈和尚は浄瓶(水差し)を掲げて、地上に置いて皆に問うた。「これを浄瓶と呼んではならぬ。汝らなんと呼ぶ」首座は言った。「まさか木切れとも呼べますまい」

百丈和尚は振り返って潙山に問うた。潙山は浄瓶を蹴倒して行ってしまった。百丈和尚は笑って言った。「首座、若手に負けよった」。それでこの男に命じて開山となった。

 

②評唱

無門曰く。潙山一期の勇、争奈(いかん)せん百丈の圏圚(けんき)を跳り出でざることを。検点して将(も)ち来れば、重きに便りして軽きに便りせず。何が故ぞ。ニイ。盤頭(ばんず)を脱得して、鉄枷(てっか)を担起(たんき)す。

私訳

潙山一世一代の蛮勇気。が、百丈の罠からは逃れられなかった。今一度点検し答えを出してみよ。重荷をかえって背負ったのだ。なぜか! 鉢巻を外して鉄の輪を嵌(は)めてしまったのだ。

 

③頌

颺下笊籬幷木杓 當陽一突絶周遮 百丈重關攔不住 脚尖趯出佛如麻

私訳

ざるやしゃもじを投げ出して、正面一撃言葉を絶す。百丈の重い扉をこじ開けて、脚は飛び出る仏は麻糸の如く(粉々)。

 

現場検証及び解説

【本則】

潙山、潙山と言われていますが、正確に言えば、後に大潙山の住職となる青年です。寺の中では地位も低かったと思われます。典座という寺の食事係長を勤めていました。しかし、その才能は密かに百丈和尚に認められていました。大潙山の住職を選ぶ段になり、百丈和尚は問題を出します。

「これを浄瓶と呼んではならぬ。汝らなんと呼ぶ」浄瓶というのは、水を蓄える瓶で、僧はこれを携帯し手を洗ったそうです。用途は違いますが、水筒のようなものでしょうか。僧が使う日常品を用いて出題したということです。

禅仏教の根本的立場からいえば、この世界に区切りはありません。ただ、ぶっ続きの世界があるだけです。言葉(思考)が後からやってきて世界に区切りを付けるのです。しかし、日常生活を営む通常の意識では、浄瓶は浄瓶として、確固として存在しているように感じられます。しかし、それは禅的には幻想で、浄瓶という言葉は世間的な約束事にすぎません。

百丈和尚は、この日常的意識を解除し、禅的第一義諦の意識に立ち戻り、浄瓶をなんと呼ぶか言ってみよ、というのです。

さて、首座(僧堂のリーダー)は、「まさか木切れとも呼べますまい」といいます。その心は「浄瓶と呼ぶなという指示ですが、かといって、木切れとも呼べますまい」ということです。「浄瓶と呼ぶな」という命令は回避しましたが、「何と呼ぶか」には応えずにいますから、なんとなく一周回って同じ場所に戻ってきている感じですね。

それに対して食事係の男は、その浄瓶を蹴倒して、その場から立ち去りました。いったいこれはどういうことでしょうか。

確かに、縦に立っているから、浄瓶としての役割を果たしますが、倒して横にすれば用をなしませんから、浄瓶とは呼べない、ということでしょうか。浄瓶は役に立つから浄瓶と呼ばれるのであって、用をなさない態にしてしまえば、浄瓶とはいえない、したがって呼ぶ必要もない、ということです。

便器を美術館の展示室に持ち込んで、花を生けてみせる・・・そんな現代美術のやり方に似ています。普段の意識を無化してみせるのです。

また、「浄瓶とは呼ぶな、しかし、何とか呼んでみよ」と百丈和尚は言います。何とも言えないところをあえて言わせようとするのは、禅お得意の手法です。しかし、それにうっかり乗ってしまえば、否定されることになります。なぜなら、無理に答えようとすると、思考が働きだすからです。

首座の答えは、百丈和尚の誘いをうまく回避してはいますが、それでも思考が働いた残滓のようなものが感じられます。食事係の男(後に潙山和尚となる)は思考を経ず、即今の行為で対応しました。浄瓶を蹴倒して去る、という行為は、百丈和尚の問いに答えたというより、問いそのものを無化してみせた、否定してみせたといえます。

いずれにしろ、百丈和尚はその態度を高く評価し、食事係の男を大潙山の住職に推すことに決めたのです。潙山和尚の誕生です。

 

【評唱】

無門先生曰く。潙山は張り切って百丈和尚の難題を突破したつもりだろうが、それは百丈和尚の罠にまんまとはまったようなもんだ、ということ。最初から、百丈和尚は潙山に目を付けていたのでしょう。

「鉢巻を外して」というのは、食事係の鉢巻を外して、という意味。「鉄の輪を嵌(は)めてしまった」というのは、住職になり、仏道教化などという重荷を背負ってしまった、ということです。住職は名誉なことではなく、厄介ごとを引き受けるようなものだったのでしょう。

 

【頌】

評唱では、百丈和尚の働きの素晴らしさに焦点が当たっていますが、頌では、潙山の働きをたたえています。ここでも、食事係だった男がその実力を発揮して、百丈和尚の難題を突破する様子がいきいき描かれています。

この則での無門先生は、ひねくれた表現が少なく、比較的素直な感じがします(笑)。

今回はこの辺で。

 

第41則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第41則「達磨安心」

 

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