【無門関】やさしい現代語訳・解説 第39則「雲門話堕」

2023/12/06
 

 

こんにちは!

今回は、話が脱線します。

 

①本則

雲門、因みに僧問う、「光明寂照遍河沙(こうみょうじゃくしょうへんがしゃ)」。一句未だ絶せざるに、門遽(にわ)かに曰く、「豈(あ)に是れ張拙秀才(ちょうせつしゅうさい)の語にあらずや」。僧云く、「是(ぜ)」。門云く、「話堕(わだ)せり」

後来、死心拈じて云く、「且(しばら)く道(い)え、那裏(なり)か是れ者の僧が話堕の処」

私訳

雲門和尚にある僧が問うた。「光明(気づきの光)は黄河の砂粒ひとつひとつにまで、あまねく密かに照らしており・・・」。僧が言い終わらないうちに、にわかに雲門和尚は言った。「それは張拙の言った言葉じゃないのか」

僧「そうです」。雲門和尚「話が破綻しておる」

後に死心禅師がこの話を取り上げて言った。「言ってみよ。この僧が破綻した点はどこか」

 

②評唱

無門曰く。若し者裏(しゃり)に向かって雲門の用処孤危(ようじょこき)、者(こ)の僧甚(なん)に因(よ)ってか話堕すと見得せば、人天の与に師と為(な)るに堪(た)えん。若也(もし)未だ明めんずんば、自救不了(じぐふりょう)」

私訳

もし雲門和尚の孤高の指導法と、この僧の破綻の点を見抜くことができれば、人に仏道を説く指導者になれるだろう。もし未だそれがわからないなら、自分を救うことさえままならない。

 

③頌

急流垂釣 貪餌者著 口縫纔開 性命喪却

私訳

急流に釣り糸を垂れれば、餌を貪るものはつつく。口をわずかでも開けば、命を失う。

 

現場検証及び解説

【本則】

話堕の堕という字は、崩れ落ちるという意味です。堕落(だらく)とか堕弱(だじゃく)とか、あまりいい意味では使われません。話堕とは、「話が崩れ落ちとるぞ」「話が脱線しておるぞ」というような意味なのでしょう。そこまでは、なんとなくわかります。

しかし、他人の言葉を引用しただけで、ダメ出しされたのだとしたら、雲門和尚はずいぶん厳しい指導をなさるのだなとは思います。かといって雲門和尚は、引用文の内容をとがめているわけでもなさそうです。やはり、他人の言葉を引用して質問する僧の態度を責めたのだと、私は考えます。

禅の修行は全存在をかけて「これなんぞ」と問うものです。大げさなことをいうようですが、命をかけて我々という存在、いったいこれは何なのかと、直に確かめる、このことはなかなかしんどい作業です。人はそのことを本能的に避けようとします。避けてどうなるかといえば、観念的になります。少し砕いていえば、他人の言葉に頼って答えを出そうとします。

本則の質問僧がそれです。他人の言葉を借りて質問しようとした。これが雲門和尚の意にそぐわなかったのです。雲門和尚はどんな拙い言葉であろうとも、質問僧が身を切るような思いで、自身の切実な問題をぶつけてきたら、それに答えただろうと思います。しかし、そうではなかったので、「話が脱線しているぞ」と指摘しました。

 

【評唱】

僧の言葉を遮り、安直な質問には答えなかった雲門和尚。無門先生はこのやり方を「孤高の指導」と評しました。少し大げさな感じがしますが、こういった断固とした姿勢を保つのは、なかなか大変なことなのかもしれません。

 

【頌】

「急流に釣り糸を垂れれば」の急流は、思考の流れのように思います。瞑想修行をするとわかりますが、思考はどこかから勝手に湧いてくる、止めようとしても止まらない、非常にしつこく、厄介なものです。

その思考を停止の方向に導こうとして、師家は弟子を日頃から観察し、機を見て行動を起こします。釣り糸を垂れるのは師家、餌をつつくのは弟子です。

餌に食らいついて吊り上げられ、命を失うという情景を、最後の二句で表現しています。ここで注意したいのは、「命を失う」というのは悪い意味ではないということです。ここは「エゴが命を失う」ということなので、禅の修行が進むといういい意味で使われています。

「話堕せり」と言われた僧はその一言でギョッとして、エゴを奪われたようになったかもしれません。思考が行き場を失うと一時期にストップします。そのような事態を起こすことを、禅では「奪う」というようです。「奪われて思考が死ぬ」のは禅的には良いことです。

ですから先に、雲門和尚は安直な質問には答えなかったのだ、と解説しましたが、質問僧の思考を奪うために、わざと言葉をさえぎり、「話堕せり」と言ったのかもしれません。

思考は禅が言うように、死ぬのかもしれません。しかし、それは一時期なもののように思います。思考はゾンビのようにしつこく、何度の何度も生き返ってきます。それにどう対するのか、という問題があります。

エゴを殺すというのも、素晴らしい方法ですが、エゴに餌をやらないという方法もあります。エゴが好むものをできるだけ控える、という方法です。エゴが好むものは何なのか、これは瞑想修行を続けていると徐々にわかってきます。ああ、これがエゴが好むものかと。「じゃあ、控えよう」とこうなるのですが、そこからがなかなかの地獄です。控えているとだんだん苦しくなってきます。

ここをどうしのいでいくかが、修行のポイントのように思います。私たちは、一気にエゴがポロンと落ちてしまうような、いわゆる頓悟(とんご)を期待しがちです。私も期待しながら、14年・・・という感じです。何にも起こってはくれません。今は頓悟は期待せず、漸悟モードで工夫を重ねています。地味に根気よくエゴを監視(観照)するという方法です。

お互いに頑張りましょう。今回はこの辺で。

 

第40則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第40則「趯倒浄瓶」

 

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