【無門関】やさしい現代語訳・解説 第38則「牛過窓櫺」

2023/09/29
 

 

こんにちは!

今回は、水牛が主人公です。

 

①本則

五祖曰く、「譬(たと)えば水牯牛(すいこぎゅう)の窓櫺(そうれい)を過ぎるが如き、頭角四蹄都(す)べて過ぎ了るに、甚麼(なん)に因(よ)ってか尾巴(びは)過ぐることを得ざる」

私訳

五祖法演和尚は言われた。「たとえば水牛が窓の外を過ぎ行くが如く、頭、角、四つの蹄(ひづめ)、すべて過ぎ終わるのに、なぜ尻尾だけ過ぎることがないのであろう」

 

②評唱

無門曰く。若し者裏(しゃり)に向かって顚倒(てんどう)して、一隻眼(いっせきげん)を著け得、一転語を下し得ば、以て上四恩(かみしおん)に報じ、下三有(しもさんぬ)を資(たす)くべし。其れ或いは未だ然らずんば、更に須らく尾巴を照顧(しょうこ)して始めて得(よ)し。

私訳

もし、ここのところをひっくり返して、ものを見る眼をもち、ズバリ本質をいい得るなら、あらゆる恩に報いることができ、この世の者たちを救うこともできるだろう。あるいは未だそうはいかないなら、さらにこの牛の尻尾をよく観察してみろ、そうすればわかる。

 

③頌

過去堕坑壍 回来却被壊 者些尾巴子 直是甚奇怪

私訳

通り過ぎれば穴に落ち、引き返したら壊れてしまう。尻尾というのは、まったく奇怪なものだ。

 

現場検証及び解説

【本則】

禅僧はたとえ話が大好きです。何でもたとえで表現しようとするので、そのことを忖度して了解する必要があります。そのぶん誤解が発生する可能性も高くなりますが。この則も、牛の生態を云々したいわけではなさそうです。牛は何かのたとえです。私は、牛を自意識(エゴ)だと解釈しました。以下、その線で解説を試みます。

ヒンズー教の覚者に、ラメッシ・バルセカールという人がいます。この方の本に「意識は語る」(ナチュラルスピリット)があります。一般の人からの質問にバルセカール氏が答えている本ですが、非常に面白い本です。その中で覚者の内面は一体どうなっているのか、という質問がなされています。未悟の人間からすると、とても気になる点です。

このことが、この則と関係していると思うので、バルセカール氏がどう答えているか、以下要約してお伝えします。

 

覚者の内面には、「自分」というものがありません。一般の人がもつような個人の感覚がないのです。そういった意味では、覚者は非個人的な存在だといえます。しかし、見た感じは一般人と変わるところはありません。名前を呼ばれれば、ちゃんと応えます。「自分」らしきものはあるのです。

では、覚者は一般人とどこが違うのでしょうか。覚者は、一般人のように、思考が常態化していません。一般人はそれとは気づかぬまま、思考が常態化しています。これは瞑想修行をしないと、なかなか気づかないことです。実は思考が個人なのです。一般人は思考及び自分の肉体を自分だと思い込み、それと一体化しています。肉体と思考をひっくるめて「肉体精神機構」と名付けます。

一般の人はこの「肉体精神機構」を自分だと思い込み、それと一体化しているため、いろいろな問題を生じます。覚者にも「肉体精神機構」はあります。しかし、それとの一体化はありません。その「肉体精神機構」を対象物として見ている感じです。他人のように見ているといってもいいかもしれません。

ですが、全く関係がないわけではありません。。危険が迫れば回避します。呼ばれれば応えます。「肉体精神機構」とある一定の関係は保っているのです。

 

以上です。では、次に本則の牛の図との関係で、自我の問題を見てみましょう。

まず、一般人は窓枠の向こうにドカーンと牛がいる状態です。牛はエゴ(肉体精神機構)です。これが大きければ大きいほど、人の精神的苦悩は大きくなります。瞑想修行がうまく進めば、エゴの影響力は弱くなっていきます。

窓枠から牛の姿がだんだんと退場していくのは、修行が進んでいるということです。

牛の体が全部退場するとどうなるのでしょうか。おそらく、サマーデイとか忘我というような状態になると思われます。こうなると、呼んでも応えない状態です。私たち未悟の人間も似た状態を毎晩経験しています。熟睡時がそれです。

牛の尻尾だけが残っている状態、本則で問題になっている状態とは、どんな感じなのでしょうか。バルセカール氏の要約ですでに述べたように、エゴの意識はほとんどない、しかし、それとの一定の関係は保っている、そのような状態です。

禅の理想は、エゴの尻尾だけ残しておき、必要なときはエゴを登場させ、働かせることもやる。ただし、不要となればサッとエゴを引き上げる。跡を残さない。そのような人物です。

一般人との違いは、一般人はエゴに振り回されて苦しみますが、覚者はエゴを使うのです。

本則は、法演和尚の疑問形で終わっています。なぜ尻尾だけが残っているのか。それに私なりに答えるならば、「それは、覚者がエゴとの一定の関係を保ち、必要なときに機能するためだ」となるでしょう。

 

【評唱】

無門先生の評唱は、ハッタリぽくて、あまり意味がないというか、ゲッソリすることが多いです。本則と頌は比較的真面目で意味があるように感じますが、評唱はただただ大仰な表現で、読み手に向かってけしかけ、ハッタリをかまし、大見得切って見せるという印象があります。

無門関という本をリスペクトしている方々からは怒られそうですが、私の正直な感想です。

ここでも、「ひっくり返す」と言っていますが、どうひっくり返すのか、不明です。まさか上下をひっくり返すのではないでしょうし、わかりません。頌で触れられているように、引き返すことなのかもしれません。

 

【頌】

「通り過ぎれば穴に落ち」というのは、すっかり牛の姿が消えてしまった状態です。先に述べたように、この状態は忘我の状態だと思われますが、この状態を「穴倉禅」といって禅は大いに嫌います。「はたらきがない」と嫌うのです。

つまり世間から引っ込んで坐禅ばかりしているのは一段低い境地で、悟ったら世間に紛れて凡夫と共に生きなさいと。それがさらにハイレベルの境地ですぞと、こういうわけです。

「引き返したら壊れてしまう」というのは、中途半端な覚者だと、世間に紛れるのはいいが、下手をすると凡夫に逆戻りということにもなりかねない、ということです。

最後の二句で、「尻尾は奇怪だ」といいます。そういえば、評唱でも、尻尾をよく見よ、と言っています。ここはポイントなのかもしれません。

牛の尻尾からの連想で、真我と個我をつなぐヒモのようなものを、私は想像しますが、覚者ではないので、はっきりしたことはわかりません。

今回はこの辺で。

 

第39則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第39則「雲門話堕」

 

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