【無門関】やさしい現代語訳・解説 第36則「路逢達道」

2023/09/28
 

 

こんにちは!

今回は、あわや、殴り合いのケンカ?の巻。

 

①本則

五祖曰く、「路に達道(たつどう)の人に逢わば、語黙(ごもく)を将(もっ)て対せざれ。且(しばら)く道(い)え、甚麼(なに)を将てか対(たい)せん」

私訳

五祖法演和尚は言った。「路上で覚者に出会ったなら、語りかけてはいかん。黙っていてもいかん。さあ、言ってみよ。どのように対応するのか」

 

②評唱

無門曰く。若(も)し者裏(しゃり)に向かって対得(たいとく)して親切ならば、妨(さまた)げず慶快(けいかい)なることを。其れ或いは未だ然らずんば、也(ま)た須(すべか)らく一切処に眼(まなこ)を著(つ)くべし。

私訳

もしここのところがよくわかっていれば、それははなはだ喜ばしいことだ。もしそれが未だわからないなら、全身眼と化してこれを見るべし。

 

③頌

路逢達道人 不将語黙対 攔腮劈面拳 直下会便会

私訳

路上で覚者にあったなら、語っちゃいかん、黙るもいかん。顎(あご)を掴(つか)んでぶちのめせ。直に会ったなら、そのことを理解するだろう。

 

現場検証及び解説

【本則】

言ってもいかん、言わなくてもいかん、禅はこのテーマが大好きです。

第5則の僧は、歯で樹にぶら下がっている最中に、樹下より「祖師西来の意」を問われました。このときも、言ったら落ちて死ぬ、言わなければ樹下の学僧に背く、さあ、どうする、どうする、という絶体絶命の境地でした。

今回は覚者に会ったときの対応を問題にしているようです。語りかけてはいかん、黙っていてもいかん、さあ、どうする、どうする、という問題です。

仏性は私たち自身のこと、それは対象化できないもの、したがって言葉にはできない、ということの主張がまずあります。しかし、それだけでは終わらず、なんとか言葉にせよだの、表現せよなどと迫ってくる、ここが大変ややこしいところです。今回もそのケースです。

 

【評唱】

無門先生のお言葉は、本則の理解を深めるものでもないし、ヒントにもなりません。ただ、見破ってみよ、とけしかけてきます。「全身眼と化して」というのは、私なりに解釈すれば、「よく観察しなさい」ということかなあ、と思います。

 

【頌】

この則は、どちらかというと、謎解きの面白味に欠けるような気がします。同じことを、本則、評唱、頌で言っているような感じです。

「顎を掴んでぶちのめせ」という表現は穏やかではありません。一見すると、暴力で対せよと言っているように感じられますが、そうではないでしょう。

むしろ、覚者の境地をダイレクトにつかみなさい、といっています。もちろんそれは、気づいていないだけで、誰にもある境地、仏性です。仏性は言葉ではつかめない、また、黙っているような消極的な態度でもつかめない、それを直(じか)につかみなさい、と無門先生は言っています。

ああ、そうか! この則は、覚者に対する対し方を問うているのではなく、仏性に覚醒することの直接性を指示しているのかもしれません。きっとそうです。納得、納得。

今回はこの辺で。

 

第37則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第37則「庭前柏樹」

 

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