【無門関】やさしい現代語訳・解説 第35則「倩女離魂」

2023/12/03
 

 

こんにちは!

今回は、少女から魂、抜け出ます。

 

①本則

五祖、僧に問うて云く、「倩女離魂(せいじょりこん)、那箇(なこ)か是れ真底(しんてい)」

私訳

五祖が、ある僧に問いかけられた。「倩女離魂の話は、どちらが本物なのだろうか」

 

②評唱

無門曰く。「若し者裏(しゃり)に向かって真底を悟り得ば、便ち知らん殻(かく)を出て殻に入ること、旅舎に宿するが如くなるを。其れ或いは未だ然らずんば、切に乱走すること莫(なか)れ。驀然(まくねん)として地水火風一散せば、湯に落つる螃蟹(ぼうかい)の七手八脚なるが如くならん。那時(なじ)言うこと莫(なか)れ、道(い)わずと」

私訳

もしどちらが本物かがわかったら、殻(肉体精神機構)を出て殻に入ることは、旅先で宿に泊まるようなものだ、ということを知るだろう。それが未だわからないなら、取り乱すことだけはしないでほしい。突然死に見舞われ、湯に落とされた蟹の如く、手足をバタバタさせるとき、言うでないぞ、聴いてなかったなんて。

 

③頌

雲月是同 渓山各異 萬福萬福 是一是二

私訳

雲と月は(一年を通じて)同じであるが、山谷の風景は(季節によって)異なる。すべてのものがなんと豊かに存在していることか! このこと(私たちの本来の面目)はいつなるもの(ワンネス)でありながら、なおかつ多様(二つに分かれたところから始まる)なのだ。

 

現場検証及び解説

【本則】

まず、「倩女離魂」の話から説明しましょう。これは、唐の伝奇小説「離魂記」からの引用です。

倩女という17歳の少女の魂が肉体から抜け出て、許婚の王文挙という青年の後を追うという話です。王は科挙の試験を受けるために旅立つのですが、青年を恋焦がれた少女の魂がさ迷い出るのです。一方で本体の肉体は病に臥(ふ)せって寝込んでいます。

年月が経ち、王は倩女(の魂)を連れて、倩女の実家を訪れます。倩女の母親は、化け物が出たと大騒ぎしますが、その目の前で二人の倩女は合体する、という話。

五祖は、どちらの倩女が本物なのか、問います。あらすじの中で答えを言ってしまっていますが、寝ている方が本物です。

前に映画「マトリックス」の例を持ち出して、あれが仏教の教えなのだ、という話をしましたが、それと同じです。ただ、映画「マトリックス」のときと同じく、この倩女離魂でも誤解してほしくないのは、寝ている方は個人的な存在ではない、ということです。魂と肉体というような話ではありません。

もっと身近な例をあげれば、私たちは熟睡時、なにものでもありません。しかし、目覚めると個人名をもち社会的な役割を担ったものとして、振る舞いはじめます。眠っているときの私(個人ではない)が、本来の面目。起きて個人として生きていることは、仏教的には夢です。おかしな話に聞こえるかもしれませんが、これが仏教の主張であり、真実です。

念のため、もう少し具体的に言ってみましょう。藤原さんという人がいるとします。眠っているときは、なにものでもありません。名無しの権兵衛。仏教的には仏性、無、本来の面目、といっています。ヒンズー教では真我、非二元の教えではワンネスといっています。これらは個人ではありません。私たち自身のことです。対象化できないものです。物質として発見されることはありません。科学的に取り扱えない代物です。

藤原さんは目覚めると、すぐさま藤原という名前を担います。自分が本当は何者なのか知りません。藤原=自分だと思っています。藤原さんは結婚しており、奥さんと二人の子どもがいます。奥さんに対しては夫、二人の子どもに対しては父親の役割を果たさなければいけない、と思い込んでいます。また、古本屋を経営しており、その経営者としての役割を果たさなければいけない、と思い込んでいます。

帰宅時には、その役割を演じることに疲れ切っています。夕食後、就寝したとき初めて、藤原さんは「フジワラボディスーツ」を脱ぎ捨て、何者でもない安らかな私(個人ではない)に帰ってゆきます。そしてまた、起床時には無自覚なまま(本来の面目の自覚がないまま)、「フジワラボディスーツ」を身につけるのです。

こんな感じですね。

ある覚者は、この二者(本当は分かれてはいないのですが)の関係を、海と泡にたとえました。海が真我、泡が個我、です。また、ある覚者は電気と電気製品にたとえました。電気製品は多様です。スマホ、パソコン、プリンター、電卓、電気ストーヴ、電子レンジ・・・。それぞれが自分のボディと機能を自分だと思い込んでいる、という状態。

スマホは「オレは最新機能を持っているぜ。アプリもたくさん搭載しているぜ」といばりますが、それはスマホが見る夢に過ぎません。電気が通わなくなれば、スマホの夢も終わります。電気が私たちの本来の面目です。

 

【評唱】

私が使用する「肉体精神機構」という言い方は、ヒンズー教の覚者、ラメッシ・バルセカールという方がよく使う言葉です。私たちは、肉体的特徴だけでなく、精神的な特徴も遺伝的に受け継いで生まれてきます。選択の余地はまったくありません。

「このような容姿、このような頭脳、このような性格、このような家柄・・・」私たちは事後的にそのような希望を抱きますが、叶えられはしません。何かが勝手に決め、私たちは生まれ、その人生を私たちは生きなければなりません。

与えられた肉体と精神が、無門先生の言うところの殻です。電気製品のたとえで言えば、ハードウェアとその機能です。それは倩女の話に沿えば、王文挙を追った魂の方が殻です。

藤原さんのたとえで言えば、寝ているときは本来の面目、起きると殻を被(かぶ)ります。藤原さんが死ねば、藤原さんの肉体精神機構は破壊され、なくなりますが、本来の面目はなくなりません。それは永遠です。

それはなくなりはせず、何らかの形で、別の殻を被ることになります。無門先生はそのことを言っています。禅の文献では、本来の面目のことを太陽、個人のことを月にたとえます。これは、非二元の教えでもそのようなたとえをしています。

馬祖道一禅師の「日面仏、月面仏」はそのことです。永遠の本来の面目と、有限の自身の肉体精神機構、その二重性をオレは生きているのだ、という意味です。

 

【頌】

自然に託して真理を語るのは禅の得意とするところです。ここでも、最初の二句でそれをやっています。

同と異です。同じなのは本来の面目、異なるのは肉体精神機構です。

最後の一句でも同じことを言っています。世界は実に多様です。ひとつとして同じものはない、といっても過言ではありません。しかし、これらはひとつのもの(本来の面目、仏性、真我、ワンネス)の現れです。そのことを、無門先生は「萬福萬福」と称賛しています。

なるほどなあ! なかなか良い詩です。今回はこの辺で。

 

第36則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第36則「路逢達道」

 

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