【無門関】やさしい現代語訳・解説 第34則「智不是道」

2023/09/27
 

 

こんにちは!

今回も、言葉の否定・・・トホホ。

 

①本則

南泉云く、「心は是れ仏にあらず、智は是れ道にあらず」

私訳

南泉和尚は言った。「心は仏ではない。智は仏道ではない」

 

②評唱

無門曰く。南泉謂(いい)つべし、老いて羞(はじ)を識らずと。纔(わずか)に臭口を開けば、家醜外に揚(あ)がる。是(か)くの如くなりと然雖(いえど)も、恩を知る者は少なし」

私訳

南泉、よくぞ言い得た。老いて恥知らずになったか。わずかに臭い口を開くかと思えば、家の恥を晒(さら)す。そうは言っても、この言葉がどんなに有難いか知る者は少ない。

 

③頌

天晴日頭出 雨下地上湿 尽情都説了 只恐信不及

私訳

空晴れて太陽がのぞく、雨降って土地が潤う。情を尽くしてすべてを説き終わったが、自分が信じきれぬ者がいることを、ただ恐れている。

 

現場検証及び解説

【本則】

「即心是仏」「非心非仏」そして今回の「智不是道」と、少しずつ「心」という単語の扱いが違います。同じ言葉を玉虫色に使うのは、当時の中国の知識人の表現方法なのかもしれません。現代日本人でも文脈の中で、同じ言葉を別の意味で使うことがあります。それと同じなのでしょう。

今回の則も「非心非仏」のときと同じく、「心は仏ではない」と南泉和尚は言いました。言った相手は記されてはいませんが、おそらく未悟の僧でしょう。この場合の心とは、白スクリーンと映像の例にならえば、映像の方を指しています。映像を映し出す白スクリーンの自覚がない者向けの言葉です。「心は仏性ではないよ。心を映している仏性に気付きなさい」ということです。

次の「智は道ではない」というのは、文字は変えていますが、「智は仏ではない」ということを言っています。

智は思考のことです。心(この場合は映像の方)は眼耳鼻舌身意で構成されていますが、なかでも一番自意識に関与しているのが意=思考です。ですから「心は仏性ではなく、なかでも思考は仏性ではないよ」ということです。

ここで誤解してほしくないのは、思考と仏性は別物ではない、ということです。仏性が思考を成り立たせています。仏性という白スクリーンなしでは、映像のセリフ部分とも呼べる思考は成り立ちません。

しかし、映像という夢を複雑化するのも、セリフ=思考です。思考を根絶するのは困難ですが、思考を少なくすることが仏性をダイレクトに知るための道であることは確かです。

南泉和尚は「智は道ではない」という言葉で、「思考で仏性には向かえない」と言っているようです。このあたりは、私の見解と異なります。

私は前にも述べたように、「思考で仏性の近くまではいける」という考えです。もちろん瞑想中に思考をもてあそぶことは厳禁ですが、理解を軽視してはなりません。

ややもすると、禅は誤解され、理解を軽視して根性主義に陥る可能性があります。「激しい修行を集中的にやらないと、このことは達成できないのだ」と思い込んでしまうのです。

実際に荒行を遂行して見性体験をする人もいるようです。そのことを否定しているわけではありません。しかし、そうでないとできない、と思い込んでしまうと、私たち庶民には手の届かない何かになってしまって、ただ憧れるだけの境地になってしまいます。それは誤解です。

私たち一般市民の修行法がありますし、また、それを追求しなくてはなりません。私はそう思っています。そういう意味で、禅が間違っているとは言いませんが、誤解を招く恐れがありますよと、注意を促しておきたいと思います。

 

【評唱】

無門先生、「家の恥を晒す」と言いながら、南泉和尚を讃えています。素直ではないものの言い方です。

 

【頌】

最初の二句は、自然描写です。自然描写に託して、瞑想修行のコツを説いている、と私は思います。前回に「強為(ごうい)と云為(うんい)」の違いについてお話ししましたが、この「空晴れて太陽がのぞく、雨降って土地が潤う」という文で、そのことを言わんとしています。

個人的には、「もう少し、ダイレクトな言い方をしてほしいなあ」と思いますが、これが無門先生のやり方です。

三句目「情を尽くしてすべてを説き終わったが」。

ここまで読んできて、?マークがついている方は、このようなものの言いように不快感を抱かれるかもしれません。しかし、これも無門先生のやり方、禅のやり方のようです。

異論はあるでしょうが、このような中途半端なものの言いようをしておいて、「あからさま」だの「丸出し」だの「すべて」だのと言いたがるのは、良い教化だとはどうしても思えません。

当時の中国の知識人は、このようなものの言い方を好み、面白がったのだろうと解釈します。ちなみに私は、まったく面白味を感じません(笑)。

四句目「信不及」は、臨済禅師がよく使う言葉です。私は、「自分が信じ切れない」と解釈します。ここでも、そういった意味で使われていると思います。

もう少し砕いて言うと、「世の中で言われている通念を疑ってみなさい。そして、そのことを自分で吟味してみなさい。自分の見方を信じなさい」という意味だと思います。

前にも述べたように、仏教は社会通念と真逆のことを真実とします。そういった意味では、反社会的に見えることさえあります。個人、物質、時間、空間と呼ばれているものを疑い、試し、熟考し、吟味する・・・その過程が瞑想修行です。習ってきたことを一旦ご破算にし、「これって何?」と自分一人で悩むことは、結構しんどいことです。

しかし、そのしんどいことを通り抜けなければ、真実にはたどり着けないのです。今回はこの辺で。

お互い頑張りましょう! 健闘を祈ります。

 

第35則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第35則「倩女離魂」

 

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