【無門関】やさしい現代語訳・解説 第33則「非心非仏」

2023/09/27
 

 

こんにちは!

今回は、新人僧が全面否定されます。

 

①本則

馬祖、因みに僧問う、「如何なるか是れ仏」。祖曰く、「非心非仏」

私訳

馬祖和尚に、ある僧が問うた。「仏とはどのようなものでしょうか」和尚は言った。「心に非ず。仏に非ず」

 

②評唱

若し者裏(しゃり)に向かって見得(けんとく)せば、参学(さんがく)の事畢(じおわ)んぬ。

私訳

もしここのところがわかったら、禅の修行は終了だ。

 

③頌

路逢剣客須呈 不遇詩人莫献 逢人且説三分 未可全施一片

私訳

路で剣客に逢ったなら剣を抜け。詩人に遇わなければ詩を献ずるな。

人に逢ったら三割だけ説け。一度に全部説いてはならない。

 

現場検証及び解説

【本則】

第30則では、大梅を相手に「仏とは心のことだ」と説いた馬祖和尚、今度は「仏とは心でもなく、仏でもないものだ」と宣(のたま)いました。

一体これは、どういうことでしょうか。

まず、30則との相違点は、大梅は覚者でしたが、今度は未悟の新人僧だということです。人を見て法を説け、の言葉通り、馬祖和尚は新人向けに「非心非仏」と言ったものと思われます。

新人は頭に一杯知識を詰め込んで、道場にやって来ます。仏教を学ぶためには、知識を一旦御破産にしなければなりません。そこで馬祖和尚は「仏とは、お前が思うような(観念的な)心ではなく、お前が思うような仏でもない」と新人の観念を全否定したのです。

ここでいうところの心とは、白スクリーンと映像の例で言えば、映像の方だけの事です。新人は映像が心だと思っています。白スクリーンの自覚がまだありません。そのような状態ですので、馬祖和尚は新人の映像を否定し、白スクリーンに気づくよう導くために、「非心」といいます。

また「非仏」とは、新人の観念的な仏のイメージを打ち砕くために、こういいます。これも新人を導くための方便です。

 

【評唱】

「非心非仏がわかったら禅の修行は卒業」と無門先生は言います。確かに観念(思考)を蕩尽(とうじん)すれば、本来の面目(白スクリーン)がダイレクトに現れ、ソレをソレとして知る見性体験が訪れるのだろう、とは思います。しかし、なかなかどうして、思考はしつこく付きまとい、私たちを解放してくれません。

この則の未悟の僧が、どの程度修行を積んだ方かは想像がつきませんが、私の経験から言えば、無門先生がいうほど簡単じゃないよ、と言いたくなります。

 

【頌】

最初の二句は、「人を見て法を説け」ということだと思います。本則の未悟の僧に馬祖和尚は、剣は抜かなかったし、詩を献上することもなかった、ということでしょうか。

後半の二句は、馬祖和尚の今回の対応のことです。未熟な者に法をすべて説くな、ということです。「非心非仏」つまり思考の蕩尽は最初の一歩に過ぎません。また、蕩尽といいますが、思考の蕩尽など至難の業です。やってみるとわかりますが、捨てても捨てても湧いてくる水のようで、キリがありません。

根気強く、継続的にやっていくことが必要です。思考を少なくしていく方向に仏教の核心があることは、間違いありません。ただ、その方法論が表現しづらいのです。人それぞれに合った方法があるように思います。だから、「私はこのようにやって効果をみた」とは言えますが、「それがあなたにも通用する」とは保証しがたいのです。各自が自分の方法を自前で見つける必要があります。どうも、そういうことのようです。

また、瞑想修行は強為(ごうい)ではなく、云為(うんい)でやらなければなりません。このことを私は、藤田一照老師の著書から学びました。「現代坐禅講義」(角川ソフィア文庫)という本です。著書から引用します。

「道元禅師はこのような、何かを目標として立てて意志的・意図的にそれを目指して無理矢理に強引に行なうのを強為と呼び、それに対して思慮分別を離れて自ずから発動してくる自然な行ないのことを云為と呼んで対比させています。坐禅はしばしば強為の積み重ねのように思われていますが、全くの誤解です。そうではなくて云為として行じられるべきものなのです。」

強為は言い換えれば、コントロールです。私たち現代人は、コントロールすることが習慣化しています。コントロールできないものはこの世に存在しない、くらいの感覚でいます。ですから、思考もコントロールでなくせると思ってしまう。しかし、そうはいかないのが思考です。

一方で、云為といわれてもピンときません。反射的に「どうしたら、云為になりますか?」と質問してしまいそうです。そのような質問こそ強為なのですが。とにかく、云為は方法論化・マニュアル化しにくいなにものか、です。方法に近い言葉だと、コツなのかもしれません。

私はよく瞑想のやり方を、自転車の乗り方にたとえます。何度も転んで痛い思いをして、やっと乗れるようになる。コツを掴んだ、体感した、乗れるようになった。そういうことです。

乗れるようになったら、ノウハウはどうでもよくなる。乗っていたら自然に熟練していきます。教えを請われる立場にならない限り、ノウハウのことは考えません。

教える立場になって初めて言語化して、何とか相手に伝えようとする。飲み込みが早い人もいれば、遅い人もいる。結局は何度も失敗を繰り返しながら、身体で覚えていくしかない。

瞑想、坐禅もこれと同じだと、私は思います。

健闘を祈ります。今回は、この辺で。

 

第34則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第34則「智不是道」

 

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