【無門関】やさしい現代語訳・解説 第32則「外道問仏」
こんにちは!
今回は、鞭の影を見ただけで走る馬、の話。
①本則
世尊、因みに外道問う、「有言を問わず、無言を問わず」。世尊拠座(こざ)す。外道賛歎して云く、「世尊の大慈大悲、我が迷雲を開いて我をして得入せしめたもう」。乃ち礼(らい)を具(ぐ)して去る。
阿難(あなん)、尋(つ)いで仏に問う、「外道は何の所証(しょしょう)有ってか賛歎して去る」。世尊云く、「世の良馬の鞭影(べんねい)を見て行くが如し」
私訳
世尊に他宗の者が問うた。「言葉でもない、無言でもない(法とは何か)」世尊は寄りかかるようにして座った。他宗の者は賛歎して言った。「世尊の大きな慈しみと憐れみが、私の迷雲を開き、悟りに導いてくださった」。そして、礼拝して去っていった。
それを見ていた阿難が世尊に問うた。「他宗の者、どこに悟りの証を見て、賛歎し去ったのですか」世尊は言った。「良い馬は鞭の影を見ただけで、走り出すものである」。
②評唱
阿難は乃(すなわ)ち仏弟子、宛(あた)かも外道の見解に如(し)かず。且(しば)らく道(い)え、外道と仏弟子と相い去ること多少ぞ。
私訳
阿難は世尊の弟子である。ここではあたかも他宗の者の理解に及んでいないようだが。さあ、言ってみよ。他宗の者と仏弟子と、どちらが法から離れているか。
③頌
剣刃上行 氷稜上走 不渉階梯 懸崖撒手
私訳
剣の上を行き、氷の上を走る。階段は上らず。崖に掛かった手を離せ。
現場検証及び解説
【本則】
禅は「言うに言われぬ仏法」というテーマが大好きです。不立文字ですね。私はなんとなく気乗りしないのですが。というのも、わけのわからぬ表現の仕方をされると、後世の者は妄想するしかないのですね。そこに誤解が生まれる可能性が出る。無門先生、それでもいいのかなあ。
とりあえず、私の思うところを述べることにいたします。
「言葉でも、無言でもない法は?」と問われた世尊(お釈迦様)は、モノに寄りかかるようなポーズをしました。どうやら、これが答えのようです。
これは、「言葉に少し寄りかかって法を説くのだ」という意味だと、私は解釈しました。なら、そういえばいいのにね。
この話は実話ではありません。禅仏教の創作です。私はお釈迦さま推しの人間ですので、「お釈迦さまや、アーナンダ(阿難)を使って、妙な話をでっち上げてほしくないなあ」と実は思っています。
世尊を他宗の者との対話がわからなかったらしい阿難。ここでは間抜けに描かれていますが、十大弟子の一人で、世尊の身近にいて、多くの言葉に接していたことから、多聞第一と呼ばれた方です。
良い馬は鞭の影を見ただけで云々は、他宗の者とはいえ修行の機運が熟していたのか、世尊のちょっとした仕草で「わかっちゃった」のでしょう。二人の間でだけ何かが通じ合い、第三者は置いてけぼりを食らわせられる・・・第六則の世尊拈花もそうでした。
【評唱】
この評唱はあまり意味がありません。他宗の者と阿難は比べようがありません。テキストからはうかがい知れません。無理に比較しようとすると、妄想がはたらきだします。無門先生はそれをわかっていて、わざとけしかけているのかもしれません。
【頌】
頌は、本則や評唱と響き合うものですが、今回のものは、なんだか冴えがなく、唐突な感じがします。
「剣の上を行き、氷の上を走る」は危険な様子ですが、これは他宗の者の行為を指しているのでしょうか。さして危険には思えませんが。
「階段は上らず。崖に掛かった手を離せ」。
階段を上らずというのは、言葉では法に接近できないぞ、というようなことでしょうか。
崖に掛かった手を離せ。これも言葉を後生大事に抱え込むでないぞ、というようなことなのかなあ。
禅の言葉嫌いはかなりのものです。ちなみに、私は「仏教を学ぶなら、徹底的に知的にやってください」派なので、言葉は否定しません。法の中心部分は「言葉では表現できない」とは思います。しかし、法の核心近くまでは言葉で行けると思っています。
言葉で近くにまでは行ける、しかし、最後の一歩は言葉では向かえない、他からの恩寵によるものだろう、そういう考えです。もちろん、瞑想修行も必須です。
怠らず、修行に励みましょう。今回はこの辺で。
第33則でお会いしましょう。
次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第33則「非心非仏」