【無門関】やさしい現代語訳・解説 第30則「即心是仏」

こんにちは!
今回は、「仏とは心のことじゃ」の巻。
①本則
馬祖(ばそ)、因みに大梅(だいばい)問う「如何なるか是れ仏」。祖云く、「即心是仏(そくしんぜぶつ)」
私訳
馬祖和尚に大梅が問うた。「仏とは如何なるものでしょうか」馬祖和尚は言った。「心が仏じゃよ」。
②評唱
無門曰く。若し能く直下(じきげ)に領略(りょうりゃく)し得去らば、仏衣を著け、仏飯を喫し、仏話を説き、仏行を行ずる、即ち是れ仏なり。是(かく)の如くなりと然雖(いえど)も、大梅、多少の人を引いて、錯(あやま)って定盤星(じょうばんじょう)を認めしむ。争(いか)でか知道(し)らん箇の仏の字を説けば、三日口を漱(そそ)ぐことを。若(も)し是れ箇の漢ならば、即心即仏と説くを見て、耳を掩(おお)うて便ち走らん」
私訳
もし、すぐに(馬祖和尚の言葉を)了解することができたなら、仏衣を着る、仏飯を食べる、仏話を説く、仏行を行う、すべてこれは仏であるといえよう。とはいえ、大梅は人の気を引いておいて、間違ったところに目を付けさせた。仏の字を説いたら三日間口を漱ぐことになると知ってのことか。いっぱしの男なら、「即心是仏」と説かれようものなら、耳を覆って逃げようものを。
③頌
青天白日 切忌尋覓 更問如何 抱贓叫屈
私訳
真っ昼間から、尋ね回るのは、本当に止めてほしい。今更なぜ問うのか。盗品を抱いて離さぬような奴め!
現場検証及び解説
【本則】
心という言葉がくせ者です。第29則でも言いましたように、無門先生は心という言葉を二様に使い分けています。
ここでも、白スクリーンと映像の比喩を使って説明を試みます。
馬祖和尚は「仏とは心のことだ」と言いました。ここでの心とは、「白スクリーンと映像」のことです。しかし、注意したいのは、この会話が白スクリーンの自覚があるものどうしの会話だということです。
前に、無門関を読む際のルールとして、実名で表示されている人物は悟っている人だ、と言いました。ここでの大梅というのもおそらく悟った人です。だから、仏を知らないわけではない。大梅は知っていて、あえて馬祖和尚が何と答えるか試している、そういう図です。
あるいは、二人の会話を脇で聞いている誰か(あるいは、読者)に聞かせている、と取ってもいいのかもしれません。
ただ、その脇で聞いている誰かが、未悟の者である場合は困ったことになります。未悟のものは白スクリーンの自覚がありません。白スクリーン上の映像(のみ)がイコール心だ、という理解のもとに生きています。それでは、仏を知ったとはいえません。
仏を丸ごと知ってはいない、仏のある一面だけを知っている、といってもいいのかもしれません。
【評唱】
もし、馬祖和尚の「即心是仏」が正確に理解できたなら、日常茶飯事すべてが仏のなせる業であるぞよ、と無門先生はいっています。
一方で「即心是仏」を誤解する人のことも危惧しています。上記したように、スクリーン上の「映像」を心であり、仏であるという理解をすれば、間違いです。
「大梅は間違ったところに目を付けさせた」というのは、そのことを指しています。
本則を置いたのは無門先生です。評唱をお書きになったのも無門先生です。誤解を生むようなことをしながら(大梅のせいにしていますが)、一方で危惧している、あるいは危惧するふりをする。このようなややこしい精神構造に耐えながら、このテキストは読まなければなりません。
「仏の字を説いたら」以下の文章は、禅お得意のテーマ、不立文字です。繰り返しになりますが、念のため言っておきます。仏は対象化できないもの、私たちの本来の面目です。本来の面目は無時空間の即今です。なので、言葉にはできません。できないものを問おうとするところ、説こうとするところに、無理があります。そのことを大げさに、芝居がかった表現を使って無門先生は言っています。
しかし、そこまでいうなら、この「無門関」の出版自体が困ったことになりはしまいか、さらにそのテキストに解説を加えているこの文章もまったく無意味なのか・・・私が一番危惧しているのは、そのことです。
【頌】
評唱もそうでしたが、この頌でも大梅がやり玉に上がっています。「即身是仏」と答えた馬祖和尚より、問うた大梅が非難されている。「盗品を抱いて離さぬような奴」の盗品は言葉のことでしょうか。えげつない表現だなあと思います。
こうやって解説している私も同罪だと、無門先生ならきっとそう言うでしょう。私のおしゃべりもこの辺で切り上げましょう。
懲りずに、第31則、いってみよう!