【無門関】やさしい現代語訳・解説 第28則「久嚮竜潭」

2023/09/24
 

 

こんにちは!

今回は、せっかくの灯を吹き消す奴、なにすんねん!

 

①本則

竜潭(りゅうたん)、因みに徳山請益(しんえき)して夜に抵(いた)る。潭云く、「夜深けぬ。子(なんじ)、何ぞ下り去らざる」。山、遂(つい)に珍重(ちんちょう)して簾(すだれ)を掲(かか)げて出(い)ず。外面の黒きを見て却回(きゅうい)して云く、「外面黒し」。

潭乃ち紙燭(ししょく)を点じて度与(どよ)す。

山、接せんと擬(ぎ)す。

潭乃ち吹滅(すいめつ)す。

山、此(ここ)に於(お)いて忽然(こつねん)として省(せい)有り。便ち作礼(さらい)す。潭云く、「子、箇(こ)の甚麼(なん)の道理をか見る」。山云く、「某甲(それがし)、今日より去って天下の老和尚の舌頭を疑わず」。

明日(みょうにち)に至って、竜潭、陞堂(しんどう)して云く、「可中箇(もしこ)の漢有り、牙(げ)は剣樹の如く、口は血盆(けっぼん)に似て、一棒に打てども頭を回(めぐ)らさざれば、他時異日、孤峰頂上に向かって君が道を立(りっ)する在らん」。

山、遂に疏抄(そしょう)を取って法堂の前に於(お)いて一炬火(こか)を将(もっ)て提起して云く、「諸(もろもろ)の玄弁(げんべん)を窮(きわ)むるも、一毫(ごう)を太虚(たいきょ)に致(お)くが若(ごと)く、世の枢機(すうき)を竭(つく)すも一滴を巨壑(こがく)に投ずるに似たり」。疏抄を将て便ち焼く。是に於いて礼辞す。

私訳

竜潭和尚の所で、徳山が教えを請うていて、夜になった。竜潭は言った。「夜も深けた。お前、なぜ去らんのだ」徳山はついに「お大事にどうぞ」と挨拶し、簾を掲げて外に出た。外が真っ暗なのを見て、振り返って言った。「外は真っ暗です」

竜潭は紙燭に火を灯して渡そうとした。

徳山はにじり寄った。

そのとき竜潭はそれを吹き消した。徳山はこのとき忽然と悟り、竜潭に礼拝した。竜潭は言った。「お前、ここに何の道理を見たのか」徳山は言った。「私は今日より天下の老和尚がたの言葉を疑いません」

次の日、竜潭は上堂し、徳山を指して言った。「ここにおる男、牙は剣樹の如く、口は血盆に似て、棒を喫すとも動じない。いつの日か孤峰に到り、自身の宗派を起こすであろう」

徳山はついに法堂前で、自身の備忘録を持ち、たいまつをかざして言った。「諸々の奥深い学問を窮めたとしても、この太虚(白スクリーン、本来の面目、無、空、真我、ワンネスなどと呼ばれているソレ)にわずかでも触れれば、世事(現象)がすべて滅びるように、(学問は)巨大な谷に一滴の雫(しずく)を垂らすようなものだ」そして、手にした備忘録を焼いて、それに礼拝した。

 

②評唱

無門曰く。「徳山未だ関を出でざる時、心憤憤(ふんぷん)、口悱悱(ひひ)たり。得得として南方より来たって教外別伝の旨を滅却せんと要す。澧州(れいしゅう)の路上に到るに及んで婆子(ばす)に問うて点心(てんじん)を買わんとす。

婆云く、「大徳の車子(しゃす)の内は是れ甚麼(なん)の文字ぞ」。

山云く、「金剛経の抄疏(しょうそ)」。

婆云く、「只だ経中に道(い)うが如きんば、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得と。大徳、那箇(なこ)の心をか点ぜんと要す」。徳山、者(こ)の一問を被(こおむ)って、直(じき)に得たり口匾檐(へんたん)に似たることを。是の如くなりと雖然(いえど)も、未だ肯(あえ)て婆子の句下(くか)に向かって死却せず。遂に婆子に問う、「近処に甚麼の宗師か有る」。

婆云く、「五里の外に竜潭和尚有り」。竜潭に到るに及んで敗闕(はいけつ)を納(い)れ尽くす。謂(いい)つべし是れ前言後語に応ぜずと。竜潭大いに児を憐れんで醜きことを覚えざるに似たり。他の些子(しゃし)の火種(かしゅ)有るを見て郎忙(ろうぼう)して悪水を将って驀頭(まくとう)に一澆(いちぎょう)に澆殺(ぎょうさつ)す。冷地に看(み)来らば、一場の好笑なり」

私訳

徳山は故郷にいるときは、心は苦しみで苛立ち、悶々としておった。意気揚々と南方に乗り込み、教外別伝とやらを退治してやろうとした。澧州まで来たとき、路上で婆さんに頼んで点心(軽食)を買おうとした。

婆さんは言った。「お坊さまの手押し車の中の書き物は何でございますか」

徳山は言った。「金剛経についての覚書じゃ」

婆さんは言った。「金剛経では、過去心は得られず、現在心は得られず、未来心は得られず、とあります。それでは、お坊さまはどの心を灯しておられるのですか?」徳山はその質問に答えられず、口をへの字にして黙った。

しかし、そこで参ったとも言えず、さらに婆さんに問うた。「この辺りに禅師はおるか」

婆さん「五里先に竜潭和尚がおられますわい」

そして、竜潭和尚の所で敗れ去ったわけだ。正にこれ、有言不実行の態。竜潭和尚は大いに子(徳山)を憐み、醜きことを厭(いと)わなかったようだ。彼の頭にまだわずかな火種(迷い、勘違い)があると見て、慌てふためき突然汚水を頭に注いで消し止めた。冷静に考えてみれば、まったく笑い話だよ。

 

③頌

聞名不如見面 見面不如聞名 雖然救得鼻孔 争奈瞎却眼睛

私訳

言葉を聞くよりは本来の面目を見るほうが良い。本来の面目を見るよりは言葉を聞くほうが良い。

鼻(本来の面目)を救い得たとしても、眼玉剥(む)かれて何とする。

 

現場検証及び解説

【本則】

竜潭和尚が灯を吹き消したとたん、徳山は悟ったとの話ですが、肝心なところは説明されないまま、読者は謎を抱えたまま放置されます。

このような点が、無門先生の良くないところのように、私は思います。無門関が、難解だが魅力的な文献であることは認めますが、あまりにも奇を衒った表現が多すぎます。後世に誤解を生むことを用心しなかったのでしょうか。しなかったのでしょうね。

「いずれにせよ、わからん奴にはわからんわい」という態度もチラチラ伺えます。

私は説明大好き人間ですから、この則を説明しつくそうと思います。頑張ります!

肝心なところを順を追って見ていきましょう。徳山は帰ろうとして、帰路が真っ暗なことを知ります。振り返りそのことを竜潭和尚に訴えます。竜潭和尚は灯を用意し徳山に渡します。渡すや否や竜潭はそれを吹き消します。

この間、徳山は何を見たのでしょうか。時系列に沿って、ⒶⒷ©に分けて徳山が何を見たか、解説します。

Ⓐ徳山は帰ろうとして、外が真っ暗なことを知ります。最初に見たのは「暗」

Ⓑ竜潭和尚にそのことを訴えると、親切に灯を作ってくれました。周囲が明るくなります。徳山が二番目に見たのは「明」です。

©徳山が灯を受け取ろうとすると、竜潭和尚は灯を吹き消します。徳山が三番目に見たのはなんでしょうか。徳山は再び「暗」を見たのでしょうか。それでは悟りとはいえません。

徳山が見たのは「暗」と「明」を、共に映すソレをダイレクトに見たのです。このシリーズで何度も比喩として用いている白スクリーンの例でいえば、白スクリーンを直に知ったのです。それが悟りです。

もう一度ⒶⒷ©の順に見ていきましょう。

Ⓐ第一に徳山が見たのは、白スクリーンに映った闇、「暗」でした。このときまだ、徳山に白スクリーンの自覚はありません。しかし、白スクリーンに映った闇です。白スクリーンを見ていないわけではありません。

Ⓑ第二に徳山が見たのは、白スクリーンに映った灯、「明」です。この時点では、まだ徳山は白スクリーンを自覚していません。

©第三に徳山が見たのは、白スクリーンそのものです。

もし、徳山が灯、すなわち「明」に執着があったら、竜潭和尚の吹き消しを「明が奪われた」と感じ、再び「暗」を見る羽目になります。しかし、徳山はそうではなかった。ここが非凡なところです。淡々と最初「暗」を見、次に「明」を見、最後に明暗を共に映し出す白スクリーン(本来の面目)そのものを見ました。

機が熟していたのでしょう。また、明暗共に奪い去る竜潭和尚のはたらきを称えるべきでしょうか。

翌日、竜潭和尚は徳山を褒め称え、徳山は金剛経の備忘録を焼きます。ここでも不立文字が強調されます。学問よりも体験だぞ、ということでしょう。しかし、そこに至るまでの徳山の学問修養、老師を訪ね歩き質問を浴びせる努力は、すべて無駄だったのでしょうか。私はそうは思いません。

知的追求を極めた上で、最後のトリガー(引き金)を竜潭和尚が引いたのです。知的に理解することは、仏教を知る上で大変重要です。そのようなつもりではないのでしょうが、ややもすると禅仏教は知的理解を軽視しているように受け取れます。

もちろん、人間は知識を集めてわかったつもりになりがちです。そうならないために、実践(瞑想修行)と知識を行き来するのです。本で読んだことをやってみて試す、試した結果を本の内容に見る、ということの繰り返しです。

ピアノ教則本を読んでいるだけではピアノを上手に弾けるようにはなりません。毎日の練習がものをいいます。また、工夫のない練習も上達に限界があります。先達から学び、練習の仕方も学ぶべきでしょう。坐禅の上達もそれと同じです。

勉強と練習の両方が必要なのです。

 

【評唱】

いつもの無門先生のコメントは、本則に関するもの多いですが、ここでは徳山が竜潭和尚に至るまでのエピソードを語っています。

茶店の婆さん(実は禅に通じている)との対話は、禅問答です。

「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」が問題です。

過去は「即今に記憶を想起したもの」ですし、未来は「即今にこれからのことを想起したもの」です。いずれも想起したもので、常に変化しますから、捕まえられないということです。

現在心は即今に起こった心です。捕まえられそうに感じますが、現在心もすぐに過去のものとなり、捕まえることはできません。心は固定的なものではなく、流動的なものですから、捕まえることは不可能です。白スクリーンと映像の例でいえば、映像を捕まえることはできない、ということです。

「慌てふためき突然汚水を頭に注いで消し止めた」というのは、灯を吹き消したことをやや誇張し、揶揄するような表現をしつつ、実は賛辞しています。

 

【頌】

「言葉を聞くよりは本来の面目を見るほうが良い」は本則と合致し納得できますが、逆の「本来の面目を見るよりは言葉を聞くほうが良い」は意味がよくわかりません。ひっくり返しただけのように感じます。言葉遊びのようなものではないでしょうか。

そういえば、備忘録のことを本則では「疏抄(そしょう)」と表現し、評唱では「抄疏(しょうそ)」といっています。業界用語、隠語、符丁にひっくり返し言葉を見つけることがありますが、そういう感じなのでしょうか(たとえばオンナ➡ナオン)。

ひっくり返したり、二語で済むところをわざわざ繰り返して四文字熟語に仕立ててみたり、これは一種の修飾なのでしょうか。

最後の二句。鼻は本来の面目を指しているようです。灯を吹き消された徳山は、本来の面目を見たが、暗闇に戻された、ということを、「眼玉をむきとる」と過激に表現します。

なんだか、日本人のセンスにはそぐわない、大陸の方々の表現だなあ、と私は感じます。

今回はこの辺で。

 

第29則でお会いしましょう。

 

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