【無門関】やさしい現代語訳・解説 第26則「二僧巻簾」

2023/09/24
 

 

こんにちは!

今回は「無門先生のいたずら発見!」の巻。

 

①本則

清涼(せいりょう)大法眼、因(ちな)みに僧、斎前(さいぜん)に上参す。眼(げん)、手を以て簾(すだれ)を指す。時に二僧有り、同じく去って簾を巻く。眼曰く、「一得、一失」

私訳

清涼院の大法眼和尚は、昼食前に僧が参禅しに来たとき、手で簾を指さされた。そのとき二人の僧がいて、同時に立ち上がり、簾を巻いた。法眼和尚は言われた。「ひとつ得て、ひとつ失った」

 

②評唱

無門曰く。「且(しばら)く道(い)え、是れ誰か得、誰か失。若(も)し者裏(しゃり)に向かって一隻眼(いっせきげん)を著(つ)け得ば、便ち清涼国師敗闕(はいけつ)の処を知らん。かくの如くなりと雖然(いえど)も、切に忌む得失裏に向かって商量することを」

私訳

さあ、言ってみよ。誰が得で、誰が失か。もしここのところを見抜く眼を持つならば、清涼国師こそ間違いだと知るだろう。しかしながら、得失を論ずるのは嫌なものだ。

 

③頌

巻起明明徹太空 太空猶未合吾宗 争似従空都放下 綿綿密密 不通風

私訳

巻き上げれば、大空(虚空)は明明白白として貫通している。大空(虚空)は、未だなお我が宗と合致しない。争うに似て、空に従い、都を放ち去る。綿密であれば、(意識の)風は通らない。

 

現場検証及び解説

【本則】

この則は普通、二人の僧のどちらが得でどちらが失か、という解釈になります。無門先生も評唱で、「誰が得で、誰が失か」と言っていますから、素直にそちらに進めば、そのような解釈になります。しかし、このテキストからは、どのように読んでも答えは出ません。出そうとすると妄想に陥ります。それが無門先生の狙いです。

無門先生を信じてはいけません。この則は非常に意地の悪いものです。引っ掛け問題といってもいい構造をもっています。私にはそう読めました。その線から、解釈を試みます。

大法眼和尚は「一得一失」と言いました。しかし、それは二僧のことを言ったのだとは、どこにも書かれていません。

私の解釈では、これは景色のことを指してそう言ったのです。そして、景色のことを比喩にして、心の働きの仕組みのことを指摘したのです。

大法眼和尚の視点から見ていきましょう。簾を上げる前は室内の光景があります。大法眼和尚は簾を指差します。二僧が同時に立ち上がり、簾を上げます。簾を上げると青空が見えます。室内の光景をスルーして心は青空に向かいます。青空の光景を得、室内の光景は失われます。このことを大法眼和尚は「一得一失」と表現しました。

心は常に外へ外へと向かいます。どういうわけかそうなります。内に留まろうとしない限り、ほおっておくと外へ向かい、関係を作りたがり、何かを成し遂げようとします。これは心の基本構造(デフォルト)のようです。この基本構造のおかげ(?)で、人間の迷いはますます深くなっていき、物語が形成されます。

迷いを深くしないように、即今に留まるようにするのが、仏教修行の在り方です。「迷いをなくす」というよりも、迷いの結び目を発見し、ゆっくりとほどいていく・・・という感じ。ほどき切ると、おそらくそこに無が出現します。

 

【評唱】

無門先生の「誰が得か、誰が失か」は読者を迷わすためのブラフ(はったり)です。あえてこの質問に答えるなら、清涼国師です。清涼国師が一人で得失した、というわけです。「清涼国師こそ間違い」というのもブラフ。清涼国師こそ正解です。

得失だけでなく、二項対立をとやかくいうのは、禅仏教では御法度です。御法度でありながら、どっちだと言い出すのも禅仏教の特徴です。

 

【頌】

この頌は少しネッチリと見てみましょう。そうすれば、本則と響きあっていることがわかります。読み下してみます。まず、一句目。

①(簾を)巻き起こせば、明明として、太空に徹す。

簾を巻き上げたとたん、目を青空に奪われる様子が思い浮かびます。

②太空は猶(なお)未だ吾宗と合(がっ)せず。

太空というのは、仏性そのまんまのことを指しています。そのまんまで対象化できないものなので、宗旨のような観念化されたものとは、合致しようがない、ということです。

③争うに似て、空に従い、都を放下す。

ここは岩波文庫とは違う読み下しにしてみました。我流です。しかし、ここは重要なところです。この句も心が室内に留まらず、外へ、つまり太空へと向かい、奪われてしまう様子を表現しているように思います。都を放下する、というのは即今から離れ、現象世界に遊んでしまう様を言っているのではないでしょうか。

④⑤綿綿密密、風を通さず。

ここは前句とトーンが変わります。前句が、太空に向けて風が通り抜けるようであったのに比べて、逆に風が通らない状態です。即今を守った場合でしょうか。綿密ですから、注意深く、外に気を散らさない様子が表現されているように思います。

さて、ここにこの頌が置かれているということの意味はなんでしょうか。私の稚拙な読解が正しいかどうかはともかく、二僧の行いとは全く関係がありません。簾、太空、風・・・全部が清涼国師が見たと思われる光景が主題です。

二僧は引っ掛けです。

私が「無門関は禅の教科書ではない、貴族階級に向けた禅の謎解き読本のようなもの」というと、怒る方もいるかもしれません。しかしながら、このような無門先生のいたずらを発見してしまうと、教科書であるとの意見には同意しがたくなってしまうのです。皆さんはどう思われるでしょうか。

今回はこの辺で。

 

第27則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第27則「不是心仏」

 

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