【無門関】やさしい現代語訳・解説 第23則「不思善悪」

2023/09/16
 

 

こんにちは!

今回は本則が長い。覚悟してください。

 

①本則

六祖、因(ちな)みに明上座(みょうじょうざ)、趁(お)うて大庾嶺(だいゆうれい)に至る。祖、明の至るを見て、即ち衣鉢(えはつ)を石上に擲(な)げて云く、

「此の衣は信を表す。力をもって争うべけんや、君が将(も)ち去るに任(まか)す」。

明、遂に之を挙ぐるに山の如くに動ぜず、踟蹰悚慄(ちちゅうしょうりつ)す。明曰く、「我は来たって法を求む、衣の為にするに非ず。願わくは行者(あんじゃ)開示したまえ」。

祖云く、「不思善、不思悪、正恁麼(しょういんも)の時、那箇(なこ)か是れ明上座が本来の面目」。明、当下に大悟、遍体(へんたい)汗流る。泣涙作礼(きゅうるいさらい)し、問うて曰く、

「上来の密語密意の外、還(かえ)って更に意旨(いし)有りや」。

祖曰く、「我れいま汝が為に説くものは、即ち密に非ず。汝若し自己の面目を返照せば、密は却(かえ)って汝が辺に在らん」。

明云く、「某甲(それがし)、黄梅に在って衆に随うと雖(いえど)も、実に未だ自己の面目を省(せい)せず。今、入処(にっしょ)を指授(しじゅ)することを蒙(こうむ)って、人の水を飲んで冷暖自知するが如し。いま行者は即ち是れ某甲の師なり」。

祖云く、「汝若し是の如くならば、即ち吾と汝と同じく黄梅を師とせん。善く自から護持(ごじ)せよ」。

私訳

六祖を追った恵明(明上座)は大庾嶺までやって来た。六祖は恵明が来るのを見て、もっていた衣鉢を石の上に投げ捨てて言った。

「この衣鉢は信を表している。力で争うべきではない。君が持ち去るがよい」。

恵明はこれを持ち上げたが山のようで動かない。そこに佇(たたず)み怖れおののいてこう言った。「私は法を知りたくて来たのです。衣鉢を継ぐとかそういう目的ではございません。どうかお示しください」。

六祖は言った。「善を思わず、悪を思わず。そのような時どこにあなたの本来の姿があるか!」

恵明は直ぐに悟って、全身汗だくになった。涙を流しつつ作礼し、こう問うた。

「只今お示し頂いた秘密の教えの他に、さらに何か道理がありましょうか」

六祖は言われた。「いま私があなたに説いた法は、秘密でも何でもない。もしあなたが自分の本来の面目を観察すれば、あなたが言うその秘密の教えとやらは、かえってあなたの身近なところにある」

恵明は言った。「私は黄梅山の弘忍禅師の下で修行するものですが、未だに本来の面目を悟りません。いま悟処の入口をお示し頂いて、水を飲んで冷暖自知するような経験をいたしました。あなた様は私の師でございます」

六祖は言われた。「もしあなたがそのように思うのなら、私とあなたは、やはり同じく弘忍禅師を師としようではないか。自らを善く保ち修行に励むがよい」

 

②評唱

「六祖謂(いい)つべし、是の事は急家より出でて老婆心切なりと。譬(たと)えば新茘支(しんれいし)の、殻(から)を剥(は)ぎ了(おわ)り、核を去り了って你(なんじ)が口裏(くり)に送在して、只だ你が嚥一嚥(えんいちえん)せんことを要するが如し」。

私訳

六祖はよくぞ言ったものだ。これは差し迫って思わず出た老婆心だ。たとえば新茘支(果実)の皮をむき、種を取って、あなたの口に入れ、あとはただ飲み込むだけという具合。

 

③頌

描不成兮画不就 賛不及兮休生受 本来面目没処蔵 世界壊時渠不朽

私訳

描こうにも描けないから、絵にもならない。褒めようもなく、礼をいうこともできない。本来の面目の没する所は蔵(のように薄暗くハッキリしない)。世界が壊れようとも親玉は不滅。

 

現場検証及び解説

【本則】

この則は少し補足が必要です。

この話は、五祖弘忍禅師の後継ぎ問題でもめた、という史実がもとになった創作と思われます。

則では六祖と敬称で語られていますが、行者(あんじゃ)という身分の低い僧だったらしいです。恵明も「行者、開示したまえ」と呼びかけています。

弘忍禅師が後継ぎに指名したにもかかわらず、衆僧たちは師の決定に納得せず激怒しました。六祖に指名された行者は身の危険を感じ、寺から逃げたといいます。それを500人もの衆僧が追ってきます。が、この則の恵明のように、議論に破れ弟子入りした僧もいたとか。

さて、六祖と恵明のやり取りを解説していきましょう。

師から弟子に衣鉢を継ぐ、という言葉がありますが、五祖弘忍禅師から六祖へと継がれた衣鉢を、恵明(明上座というくらいだから、僧としての身分は高い)は持ち上げられなかった、という構図です。恵明には六祖の荷は重かった、その器ではなかった、ということでしょう。

衣鉢は法を継いだ証にすぎません。要するに、その者がちゃんと法を悟ったかどうかが問題です。

恵明は下に見ていたその男(六祖)に教えを請います。

「善を思わず、悪を思わず。そのような時どこにあなたの本来の姿があるか!」というのは、思考がなくなった状態のことをいっています。無思考状態が本来の面目であり、無(禅仏教)であり、真我(ヒンズー教)であり、ワンネス(非二元の教え)なのです。

ソレ(本来の面目、無、真我、ワンネス)は私たちの認識の一切を映す白スクリーンのようなものです。私たちは常にソレと共にありますが、ソレに気づきません。

映画館を出て誰も「あー、今日の白スクリーンは良かったなあ」とは言いません。映像、ストーリー、役者などについて語ります。仏教は「実は私たちは白スクリーンなのだ」といいます。「白スクリーン上の映像(人生)は夢みたいなものだ」といっているのです。

白スクリーンは私たちに最も身近なものです。しかし、凡夫はそれに気づきません。なぜなら、白スクリーン上の映像に心奪われてしまうからです。瞑想は心が行うトリックを見抜くこと、といってもいいのかもしれません。トリックがあまりの自然に、自動的、習慣的に、しかも高速で行われるため、普通の生活では見抜くことが大変難しいのです。

六祖がいうように、「本来の面目を観察」すれば、法(白スクリーン、ソレ)は身近にあることがわかります。

私の経験からいえば、瞑想修行を続けるなかで、心が行っているトリックを少しずつ見抜いていくことで、ソレが身近にあるという感触が深まっていくのだと思います。

 

【評唱】

ここでも無門先生は、大したことは言っていません。六祖が恵明に大変親切に法を説いていることは認めますが、おっしゃるほど簡単だとも思いません。少なくとも、私たちにはそう簡単ではありません。それを「どうじゃ、やさしかろう」という顔をされると、あまりいい気はしません。

 

【頌】

私たちが問題にしている仏性は、白スクリーン(これも比喩ですが)です。白スクリーンは絵に描くことができません。白スクリーンは私たちの本来の面目です。本来の面目が真の私たちです。それを対象化することはできません。ヒンズー教ではこのことを「眼は眼を直接見られません」と表現しています。鏡に映して間接的に見ることはできますが、直接見られない。それと同じように、私たちは私たちの本体を直接認識することは普通できません。

そのことを最初の二句でいっています。

最後の二句は大変興味深い句です。

「本来面目没処蔵」本来の面目が没する所は蔵である、と。蔵という語でどのような状態を暗示しているのか、ハッキリとはわかりません。蔵のように薄暗い所にソレは没するのだ、と解釈してみました。私たちのソレ、本来の面目は、たとえば眠るときどこに没するのでしょうか。また、肉体が滅ぶとき、ソレはどこに没するのでしょうか。無門先生は、それを蔵と表現しました。

「世界壊時渠不朽」世界が壊れるとき、というのは物質的世界が壊れるというよりも、肉体が滅び認識世界が壊れるとき、と解釈したほうがわかりやすいかと思います。

渠(かれ)というのは、本来の面目、真我、ワンネス、ソレです。それ(渠)は永遠です。

私たちはそれぞれ個人(と思い込んで)として生活し、死んでいきます。しかし、私たちを通じてはたらいている渠(かれ、本来の面目)は死にません。生まれたこともないのです。般若心経でいう「不生不滅」とは渠のことです。

理解していただけたでしょうか。そんなバカな!と思われるかもしれません。しかし、仏教とはそういう話なのです。

いえ、作り話だといっているわけではありません。お釈迦さまはそれを自力で発見され、真理として教えようとされました。が、普通はそう思えない。なので、未悟のうちは信じるしかない。

瞑想修行の最終目的は、それをダイレクトに知るということです。

それは私の想像によると、エヴェレストの頂上に立つほど難しいことですが、せめて麓(ふもと)のベースキャンプくらいまでは行ってやろうと、日々切磋琢磨しているのです。

では、今回はこの辺で。

 

第24則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第24則「離却語言」

 

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