【無門関】やさしい現代語訳・解説 第20則「大力量人」

2023/09/16
 

 

こんにちは!

今回は、坐禅したまま立ち上がらない覚者の話、かな?

 

①本則

松源和尚云く、「大力量の人、甚(なん)に因(よ)ってか脚を擡(もた)げ起こさざる」。又云く、「口を開くこと舌頭上に在らざる」

私訳

松源和尚が言った。「大変力量のある指導者が、なぜ坐禅から立とうとしないのか」またこうも言った。「なぜ口を開いて話そうとしないのか」

 

②評唱

無門曰く。「松源謂(いい)つべし、腸を傾け腹を倒すと。只だ是れ人の承当(じょうとう)することを欠く。縦饒(たと)い直下(じきげ)に承当するも、正に好し無門が処に来たって痛棒を喫せんに。何が故ぞ。ニイ。真金を識(し)らんと要(ほつ)せば、火裏に看よ」。

私訳

松源和尚はよく言ったものだ。はらわたまでさらけ出した。ただ、この教えを受け止める奴がいなかったのだ。しかし、そういう奴がいたとしても、無門のところに来て痛棒を受けるがよい。なぜか。本物の金かどうかは、火にくべてみればわかる。

 

③頌

擡脚踏翻香水海 低頭俯視四禅天 一箇渾身無處著 請 続一句

私訳

坐禅から立ち香水海を踏み、四禅天をも下に見る。この一個の渾身(坐禅身)は無空間にあり。しかしながら、言ってもらいたいのだ、次の一句を!

 

現場検証及び解説

【本則】

「大変力量のある指導者が、なぜ坐禅から立って、教えだそうとしないのか」松源和尚は誰にともなくそう問うている、という図です。

坐禅している姿そのものが教えだと、こういいたいのでしょうか。禅は不立文字を旨としていますので、いかにもそのようなことを暗に(ハッキリとではなく)主張しているように思えます。

このシリーズで何度も言っていることですが、言葉は時間の中で効果を持つ道具です。「あ」だけでは何のことかわかりません。あ・い・し・て・る、と時間の中で繋(つな)ぐことによって、他者に何かを伝えようとします。他者とは空間に存在する者です。空間には関係が存在します。

このように考えると、言葉は時空間の中で意味をもつものだといえます。ところが、禅仏教が主張するのは即今です。即今には時間も空間もありません。即今が仏性といってもいい。即今が無といってもいい。すなわち教えの要(かなめ)は無時空間の即今ですので、それは言葉では表現できないのです。

禅の悟りを見性体験といいますが、これを経験した人は口を揃えて「これは何とも言えない体験で、ちょっと表現のしようがない」といいますから、おそらくそうなのでしょう。

また、これは知的理解を超えた体験のようで、ヒンズー教の覚者はこのことを「ソレをソレとして知る」と言っています。知的なアプローチでは到底知り得ない境地・・・「ソレをダイレクトに知る」ということです。

残念ながら私は、見性体験をしていませんので、読んだ内容を説明しているだけです。また、見性体験しても、その体験を皆さんには説明することができない・・・ということです。

本則は、そのようなことを暗示しているように、受け取れます。

 

【評唱】

無門先生は素直ではありません。本則のどこが「はらわたまでさらけ出して」いるのでしょうか。

わざと、わかりにくい話をポンと投げ出しておいて、「どうじゃ、わかりやすかろう?」とニヤニヤしてみせているようで(異論もあるでしょうが)、私はこういうやり方は、あまり好きではありません。本則をさらにわかりにくくしているだけのように思えます。

「教えを受け止める奴がいなかった」とのコメントがありますが、松源和尚はこの言葉を、そもそも誰に向かって言っているのでしょうか。この則は無門先生が持ってきて、ここに置いたものです。「受け止める奴がいなかった」とは、松源和尚の名を借りて、無門先生が、読者に向けて言っているようにも感じられます。

とすればこの言葉も、「おそらく、わからんじゃろうなあ」というような衒(てら)いのように感じられるのですが、皆さんはどうお考えでしょう。

仏教の教えということに関していえば、ズバリ仏教は教えられません。上記したように、言葉では表現できないこと(仏性・無・真我)が主題だからです。言葉で導くこと、言葉で方向を指し示すことができるだけです。

しかし、私たちと馴染みのないことが主題になっているわけではありません。それどころか、私たちはその主題の真っ只中にいます。真っ只中にいながら、それに気づいていない事態を無知と呼びます。そういうことです。

無門の痛棒を食らうべし、火にくべてみよ、というのはいかにも禅らしい言い方です。いくら仏教を知的に理解しても、人格は良くなりません。もちろん理解は大切ですが、それが血肉化しないことには、どうにもなりません。そのことを無門先生は言っています。私もこれには大いに同意します。

人間ピンチに陥ると、地が出てしまいます。ピンチにその人の本性が出てしまうものです。火にくべられるようなピンチにあって、本物かどうかがわかろうというもの。日本の宗教人も、一人一人、火にくべてみたら、どうかしらん?

ねえ、無門先生!

 

【頌】

最初の二句は、大力量の人が立つ姿を、雄大に表現したものでしょう。次の一句が重要です。

「この一個の渾身(坐禅身)は無空間にあり」

身体は空間に存在するのに、なぜ無空間なのか、不思議な気がします。これは渾身(坐禅身)という言葉で、即今を表現しているものと思われます。即今は無空間であるだけでなく、無時間です。

無時間ですから、言葉が有効なところではありません。ですが、禅はあえて「言えない境地を、あえて言え」と迫ります。最後の句。「請う。続一句」はそれです。

でも、どうでしょう。続く一句をうっかり言ってしまったら、無門先生に痛棒を食らうような気がするのは、私だけでしょうか。

今回はこの辺で。

 

第21則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第21則「雲門尿橛」

 

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