【無門関】やさしい現代語訳・解説 第19則「平常是道」

2023/09/16
 

 

こんにちは!

今回は、ハラハラドキドキしがちなあなたにうってつけの話題。

平常心。

 

①本則

南泉、因みに趙州問う、「如何なるか是れ道」。泉曰く、「平常心是れ道」。州云く、「還(かえ)って趣向(しゅこう)すべきや」。泉曰く、「向かわんと擬(ぎ)すれば即ち乖(そむ)く」。

州云く、「擬せんずんば、争(いか)でか是れ道なることを知らん」。

泉曰く、「道は知にも属せず、不知にも属せず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不疑の道に達せば、猶(な)お太虚(たいきょ)の廓然(かくねん)として洞豁(とうかつ)なるが如し。豈(あ)に強いて是非す可けんや」。

州、言下に頓悟(とんご)す。

 

私訳

南泉和尚に趙州が問うた。「道とはどういうものでしょうか」南泉和尚「平常心が道だ」趙州「それに向かって工夫すべきでしょうか」南泉和尚「向かおうとすればかえってダメだ」趙州「向かおうとしないで、どうしてそれが道であることが分かりますか」

南泉和尚「道は知には属せず、不知にも属さない。知は妄想であるが、不知であれば語れない。もし疑いえない境地に達せば、虚空カラリと晴れ渡たり広々とした心になる。どうして(道に向かおうとして)あれこれ工夫を凝らす必要があろうか」

趙州はその一語で悟ってしまった。

 

②評唱

無門曰く。「南泉、趙州に発問せられて、直に得たり、瓦解氷消(がげひょうしょう)、分疎不下(ぶんそふげ)なることを。趙州、縦饒(たと)い悟り去るも、更に参ずること三十年にして始めて得ん」。

私訳

南泉和尚は趙州の質問を受け、それに答えた。趙州はすぐに、疑いが瓦解し溶けてしまい、言葉にはできないところを悟った。たとえそこで悟り去ったとしても、さらに三十年、禅に参じて、ようやくしっかりと得られるだろう。

 

③頌

春有百花秋有月 夏有涼風 冬有雪 若無閑事挂心頭 便是人間好時節

私訳

春には様々な花が咲き、秋には月、夏には涼風、冬には雪という季節の風物詩がある。もし物事を気にかけなければ、人々の中にあっていつでも機嫌良くしていられるだろう。

 

現場検証及び解説

【本則】

南泉和尚は「平常心に向かおうとすれば、かえってダメだ」といいます。これは、私たちの日常でも、よくあることではないでしょうか。緊張しまいと意識すればするほど緊張してしまうってこと、ありますよね。

そういえば、野球のイチローさん、WBCの決勝戦、最終回、好機で打順が回ってきたときのことを語っています。あの大会中イチローさんはバッティングの調子を崩していました。告白していますが、「塁があいていたので、できれば敬遠してほしかった」と。そこまで弱気になっていたイチローさんですが、相手が勝負してきたので腹を括って勝負した結果、皆さんご存知のように、決勝打を打ちました。大会中いいとこなしでそこまできたイチローさんでしたが、最後の最後で、一番美味しい所を持っていってしまった。さすが、スーパースターです。

イチローさんも、どちらかというと、緊張するタイプのようで、「好機で緊張するなといっても無理」と断言しています。対策は唯一「ルーティンをしっかりやること」らしい。

このように、平常心を保とうとか、平常心になろうとか、そういうのはかえってダメだということです。なぜでしょうか。それは、「保とう」とか「なろう」という意図そのものが、平常心に背く要素だからです。意図は想念、思考と言い換えてもいいです。言わば、平常心とは「思考のない状態」です。思考のない状態を思考で作ろうとするところに無理があるのです。

「道は知には属せず」というのは、知は思考の世界ですから、道=平常心が思考のない状態とすると、合点がいきます。しかし、そのあとの「不知にも属さない」というのがわかりません。「道は知には属さない」だけでいいような気がします。それとも「思考の世界ではなく、思考のない世界でもない」と読むのが正しいのでしょうか。それだと矛盾してしまいますが・・・。

「知は妄想であるが、不知であれば語れない」というのは、思考=言葉は妄想だが、思考・言葉がなければ語れない、というのは当たり前です。

「どうして(道に向かおうとして)あれこれ工夫を凝らす必要があろうか」の後、趙州は悟ったとありますが、私ならこう聞きます。「じゃあ、どうして修行したらいいんですか!」

ここが、この修行の難しいところで・・・。頑張ったらできるという世界ではないのですね。戦後生まれの私たちは「頑張ったらできる」といわれて育ってきました。努力ということに価値を見出す社会に生きてきました。ですから、「あれこれ工夫を凝らす必要はない」といわれると、戸惑ってしまいます。

坐禅指導でも、昔の本などには、「背筋を伸ばして口をへの字に、丹田に力を込めて・・・」などと書かれていることがありますが、あまりいい坐り方とはいえません。気張ってやる坐禅より、リラックスしてする坐禅の方がいいと思います。リラックスし過ぎて、コックリコックリではかえってダメですが。

 

【評唱】

瓦解氷消(がげひょうしょう)という言葉は、理解が起こったときの様子を上手く表現しているように思います。何かが固まるのではなく、何か気になっていることが解ける感じが、理解だと思います。

ちなみに、ノンデュアリティ(非二元)の教えの指導者、ルパート・スパイラさんは「理解は思考レベルで起こるのではない」と言っています。おそらく理解とは、最初に「ああ、そうか!」というような直観があり、その後に他者に説明すべく(あるいは、自分の中で再確認するために)言語化するのではないかと思われます。私の経験からも、そうです。直観から思考への流れがあまりにも自動化され過ぎていて、普段それに気づかないのではないでしょうか。

 

【頌】

四季の風物詩で表現しているのは、変化です。私たちは変化を好みません。暑いと嘆き、寒いと嘆きます。常に安定を求めます。しかし、状況は変化するものです。その場その時に合わせて、ホイッホイッと涼しい顔をして順応していけるのが、平常心であり道なのでしょう。

平常心は機嫌の良さに通じるような気がします。それもハイテンションな機嫌の良さではなく、穏やかな機嫌の良さ・・・。そのような人は付き合いやすい。

逆に、機嫌が悪い人は付き合いづらいです。怒気をはらんだ人は、感情的なわだかまりを無意識のうちに抱えていますから、どんな拍子にそれが爆発するかわからず、取り扱い要注意人物に指定されてしまいます。

男女を問わず、機嫌のいい人物は魅力的です。化粧やファッションに凝るよりも、坐禅をして機嫌の良い人になった方が、異性にもてます。また、金もかかりません。いいと思いませんか?

 

【付録】

緊張・不安・恐怖に有効な「鷹取(たかとり)の手」という方法をご紹介します。

これは、古武術家の甲野善紀先生が考案されたもので、これをやると、横隔膜が下がります。緊張・不安・恐怖というのは、身体的にいえば横隔膜が上がった状態。それをこの方法で下げてやるのです。

①肩の力を抜いて、両手を下にだらーんとする。

②肩を下げた状態のまま、胸の前で、両手の親指、人差し指、小指を合わせて、手に窪みを作る。

③両手の薬指を第二関節辺りで引っ掛けるようにして、関節を起点に上下にギューッと引っ張る。

どうでしょうか。横隔膜が下がって、自然に腹がすわった感じになりませんか。

試してみてください。

 

では、また。第20則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第20則「大力量人」

 

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