【無門関】やさしい現代語訳・解説 第18則「洞山三斤」

2023/10/10
 

 

こんにちは!

今回は「仏性とは麻糸600グラムなり」???の話。

 

①本則

洞山和尚、因みに僧問う、「如何なるか是れ仏」。山曰く、「麻三斤(まさんぎん)」。

私訳

洞山和尚がある僧から問われた。「仏とは如何なるものでしょうか」和尚は言った。「麻糸600グラム」。

 

②評唱

無門曰く。「洞山老人、些(さ)の蚌蛤(ぼうごう)の禅に参得して、纔(わず)かに両片を開いて肝腸(かんちょう)を露出す。是(かく)の如くなりと然雖(いえど)も、且く道え、甚(いず)れの処に向かってか洞山を見ん」。

私訳

洞山老和尚は、いささかはまぐり禅を学ばれた様子、蓋を開いてはらわた丸出しじゃ。しかしながら、言ってみよ。洞山の意如何(いかん)。

③頌

突出麻三斤 言親意更親 来説是非者 便是是非人

私訳

麻三斤(の一句)はずば抜けている。言葉も良いし意味も良い。このことの是非をとやかくいう人は、しょせん是非の人でしかない。

 

現場検証及び解説

【本則】

この則は第37則の「庭前伯樹」と一見似ています。「祖師西来意」を問われ、おそらく目の前にあった伯樹を見て答えた、それと同じように目の前の麻糸をもって仏とした、ように思えます。しかしこの則はむしろ、第8則の「奚仲造車」と通じるものがあります。

麻糸600グラムとは、ちょうど僧衣一着分作れる量らしいです。なので、原料のことをいったのだと思います。僧衣と麻糸600グラムの関係は、奚仲の車と解体された部品の関係と同じです。

つまり、人間の認識は眼耳鼻舌身のデータ(原料)を基に、意(思考)で組み立てたものです。ですから、同じ世界を認識しているようで、各自の世界はおそらくかなり違ったものであると思われます。

思われます、としかいえないのは、誰も他人の認識を経験することがないからです。

また、自我と呼ばれているもの、自己イメージも、素の原料にかなりの粉飾が施されたものです。思考・イメージ・感情で加工してしまうのです。

麻糸600グラムは、眼耳鼻舌身で得た素のデータのことです。人間はその素のデータを思考・イメージ・感情で、ひとつの衣装に仕立てあげてしまうのです。それはあたかも、糸を織り布にし、布地を切り、縫い合わせて一着の着物に仕立て上げる過程に似ています。麻糸600グラムではあまり意味がありませんが、一着の着物は意味のあるものです。

奚仲の車でいうと、バラバラの部品では意味も働きもありませんが、組み立てて一台の車に仕立てあげると、意味と働きが現れてきます。

ギョッとされるかもしれませんが、人間の素のデータは何の意味もないものです。それを常に思考・イメージ・感情で意味あるものにしているのです。瞑想修行を続けて、思考などが何をしているかが見えてくると、そこのところがわかってきます。

人間は何か目的があった方が、元気に生きられるようです。無目的、無意味だと張り合いがなくなり、不安になることもあります。また、プラス思考の方はまだいいのですが、マイナス思考が強い方は未来を悪い方向にイメージしがちです。それはやめたほうがいいです。私自身がうつ持ちなので、そうなりがちなのです。そういう人はどうしたらいいのか、私もずいぶん苦労しました。結論は「なーんも考えないに限る」ということです。

バカのままで良し、というのとも違います。考えるべきときに考えればいいので、あらかじめクヨクヨするな、ということです。しかし、元来クヨクヨするタイプの方、クヨクヨ癖が付いている方は、なかなかそれが難しいことも承知しています。思考の癖を見抜き、長い時間をかけてその癖を取り除いていくことが、瞑想修行の目的なのかもしれません。

麻糸600グラム=仏性です。白隠禅師坐禅和讃に「衆生本来仏なり」とあります。衆生の素の認識は「麻糸600グラム」なのですが、それを一着の服に仕立てあげてしまう思考・イメージ・感情がくせ者です。

この本則は端的ではありますが、あまりにも端的過ぎて大抵の人は何が何だかわからない、というのが欠点です。

 

【評唱】

禅僧は素直な表現をしない、ということに気がつくまで、私はずいぶん時間がかかりました。この無門先生のお言葉も、本則の説明でもなし、これのどこが「はらわた丸出し」なのかトント合点がいかなくて、イライラしたもんです。

「無門関は禅の教科書である」と言われていますが、私はその意見には同意しかねます。この書物は皇帝陛下に献上されたものです。貴族階級のある程度禅を嗜んだ者が、判じ物(謎解き)のような読み物として楽しんだのではないかと想像します。

それを法灯国師という方が日本に持ち込み、その後、禅の聖書と化していった・・・というように私には感じられます。

素人が何を根拠に偉そうなことをいうか!言われれそうですが、権威に義理立てして口がきけないようでは、今後の修行にも差し障りますので、あえて意見いたします。

無門関は言葉での説明を避け、イメージで仏性をダイレクトに表現します。そのイメージは、分かる人には「なるほどなあ」と思わせるものがあります。この麻三斤もそうです。それは認めます。しかし、これから禅を学ぼうという方々には教科書とはなりえません。かえって混乱させるだけです。

 

【頌】

「このことの是非をとやかくいう人」とは、何のことでしょうか。是非とは思考のことです。ですから、さらに意訳すれば、「思考する人」ということです。

「しょせん是非の人でしかない」というのは「しょせん思考の人でしかない」ということ。確かに仏法は思考するのではなく、体得するものです。それはそう思います。

しかし、「あまりに言葉足らずだと誤解が山積しませんか」というのが、私の言い分です。そのため、今回は偉そうなことも言わせてもらいました。

「しょせん是非の人」の現場検証、今回はこの辺で。

 

また、第19則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第19則「平常是道」

 

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Copyright© 瞑想修行の道しるべ , 2022 All Rights Reserved.