【無門関】やさしい現代語訳・解説 第17則「国師三喚」

2023/10/09
 

 

こんにちは!

今回は「三度呼んで、三度応えた」何が悪い?の話。

 

①本則

国師、三たび侍者を喚(よ)ぶ。侍者三たび応ず。国師曰く、「将謂(おもえ)らく、吾れ汝に辜負(こぶ)すと。元来却って是れ、汝吾れに辜負す」。

私訳

南陽慧忠国師は、三度侍者を呼んだ。侍者も三度応じた。国師は言った。「はっきりいう。ワシがお前に背いていると思っていたが、初めからお前がワシに背いておったのだな」

 

②評唱

無門曰く。「国師三喚、舌頭(ぜっとう)地に堕(お)つ。侍者三応(さんのう)、光に和して吐出す。国師年老い心孤にして、牛頭を按(あん)じて草を喫(きつ)せしむ。侍者、未だ肯(あえ)て承当(じょうとう)せず。美食も飽人(ほうじん)の喰(さん)に中(あた)らず。且(しば)らく道(い)え、那裏(なり)か是れ他(かれ)が辜負(こぶ)の処ぞ。国浄うして才子貴く、家富んで小児嬌(おご)る」。

私訳

国師は三度呼んだが、その言葉は地に落ち無駄になった。侍者は三度応じたが、その場に合わせただけだ。国師は年老い寂しくなって、牛の頭を撫でて草をやったのだ。侍者は未だそれを受け継ぐことができなかった。どんな美食も満足しきった人間には糧にはならない。言ってみよ。侍者のどこがいけなかったのか。国は清く才子は貴いが、豊かになったせいでかえって子どもが驕るようになった。

 

③頌

鉄枷無孔要人擔 累児孫不等閑 欲得撐門並戸柱戸 更須赤脚上刀山

(注)三句目の「並」は岩波文庫では井戸の「井」に似た漢字があてがわれていますが、パソコンの辞書の中には見当たらず、読み下し文では「ならびに」と読んでいるため、「並」の字で代用しました。

私訳

(仏教は)穴のない鉄伽を人にはめさせる。災いは子孫におよぶ。慣習は等しからず。宗門を支え家風を守ろうと思えば、ぜひとも裸足で刀の山を登るようなこともしてほしいものだ。

 

現場検証及び解説

【本則】

禅では常に勝義諦を問題にします。勝義諦とはザックリいえば、即今のことです。水平面の時空に立つ垂直軸のことです。覚者、凡夫を問わず、ソレは常に存在している即今ですが、覚者は常にそこに住しているのに対して、凡夫はそこから常に外れていってしまう。想念の世界に巻き込まれていってしまいます。

想念の世界を勝義諦に対して世俗諦といいます。想念の世界は時間と関係で成り立っていますから、世俗諦は時空間のでのやり取りといえるでしょう。世俗諦は普通の日常会話ですから、私たち凡夫からみて、なんら変なところはありません。

おそらくこの則の侍者の対応も、おかしなところは何もなかったはずです。

ただ、国師は世俗諦で呼んでいるのではないのです。勝義諦で呼んでいるのです。「おい!」と侍者の真我、本来の面目に呼びかけています。侍者の覚醒を促しているのです。ところが、この侍者はそうとは気づかずに世俗諦で応えたのです。「はい、何か御用でしょうか」というように。

それに対して師は憤慨しています。「ワシが至らないのかと思っていたが、お前が悪いんじゃないか!」と。師は常に弟子の覚醒の機縁を伺っていたのでしょう。師の真剣さに応えるだけの発心、真剣さがこの侍者には欠けていました。

 

【評唱】

無門先生は師と弟子のチグハグなやり取りを嘆いているようです。「侍者はその場に合わせただけだ」というのは、つまり世俗諦で応えている、勝義諦ではない、ということでしょう。後半の文章は、侍者が世俗の立場に満足しきっていて、法を求める心、発心、真剣さに欠けることを指摘しているように思います。

師は常に弟子の様子を見、覚醒の機縁を伺っていたのに、弟子はただノホホンと日常業務をこなしていた、そんな二人の関係がうかがわれます。

 

【頌】

鉄伽無孔とは仏法のことだと岩波文庫の解説にはあります。しかし、これは教条主義的な仏教ということで、悪い意味で使っているのでしょう。穴のない鉄伽ですから、どこにどうはまっているのかわからない枷です。僧堂の規則や行事のことをいっているのかもしれません。侍者もそういうことはキチンとこなす僧なのです。ですが、発心には欠けています。

「不等閑」は岩波文庫では「等閑ならず」と読み下していますが、私は「閑は等しからず」と読んでみました。閑には規則とか慣習の意味があるようです。僧堂も気を抜けばどんどん堕落する、というようなことがいいたかったのかもしれません。

家風を保つには、いわゆる「守りの姿勢」に入ってはならず、常にアグレッシブに「攻めの姿勢」でいるべきだ、ということを、無門先生は最後の二句で言いたかったのでしょう。

しかし、それは並み大抵のことではありません。人間どうしても、既成のものに習ってしまいますから。必然的に堕落していってしまうのが、組織というものでしょう。宗教者として生きるとは、組織の人間として生きることとは違います。

法と共に生きることは習うことではない、一瞬一瞬を生ききるとでもいうような、すがすがしさがそこにはあるのではないでしょうか。

 

では、また、第18則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第18則「洞山三斤」

 

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