【無門関】やさしい現代語訳・解説 第12則「巌喚主人」
こんにちは!
今回は一人芝居の話。
①本則
瑞巌彦(ずいがんげん)和尚、毎日自ら「主人公」と喚(よ)び、復(ま)た自ら応諾(おうだく)す。乃ち云く、「惺惺着(せいせいじゃく)。喏(だく)。他時異日(たじいじつ)、人の瞞(まん)を受くること莫(なか)れ。喏喏」。
私訳
瑞巌和尚は毎日自分に向かって「主人公!」と呼び、またそれに自分で応えていた。こんなふうに。「ハッキリと目覚め、かつ心静かな状態でおれよ!」「わかった」「他のときも、別の日も、人に騙されるでないぞ!」「わかった、わかった」
②評唱
無門曰く。「瑞巌老子、自ら買い自ら売って、許多(そこばく)の神頭鬼面(しんずきめん)を弄出(ろうしゅつ)す。何が故ぞ。ニイ。一箇の喚ぶ底、一箇の応ずる底。一箇の惺惺底、一箇の人の瞞を受けざる底。認着(にんじゃく)すれば依前(いぜん)として還(かえ)って不是(ふぜ)。若也他(もしかれ)に傚(なら)わば、惣(そう)に是れ野狐の見解ならん」。
私訳
瑞巌親父は自分で売って自分で買う。神や鬼、一人芝居で、幾多の役に戯れる。何のためにこんなことをする! 呼ぶ役、応ずる役、目覚めた人の役、騙されない人の役。どれを認めてもダメだ。もし瑞巌のマネでもしたら、全くそれは野狐の見解だ。
③頌
学道之人不識真 只為従前認識神 無量劫来生死本 癡人喚作本来人
私訳
学僧は真実を知らない。それは普段妄想にふけっているからだ。永遠に生死を繰り返すもの(自我と肉体)を、愚か者は本当の自分だと思っているのだ。
現場検証及び解説
【本則】
瑞巌和尚の一人芝居ですが、私たちもこれはよくやるのではないでしょうか。
私はよくくじけそうになると「頑張れ、頑張れ、タ・ケ・シ!」なんてよくやります。恥ずかしいですね、よい大人が(笑)。しかし、そうやって自分を励まして、なんとかやっていこうとするのが人間です。
また、原付バイクを運転しながら、「停止線だ。ちゃんと止まれー」(一度警察に捕まった)とか、「自転車いるぞ、気を付けろー」(朝は飛ばしてる自転車が多い)とか、「後ろにトラック・・・」(ただ単に怖い)とか、自分に言い聞かせます。みんなもやるでしょう?
さて、瑞巌和尚は何を自分に言い聞かせているのでしょうか。少なくとも二人の主体が想定されています。呼びかける者と、応える者と。惺惺着、つまり「ハッキリと目覚め、心静かな状態」がいいわけですが、どうしても「ボンヤリとし、心穏やかでない状態」になってしまうから、事前にいさめるのです。
これはどういうことなのでしょうか。
私はこれを「想念」と「それを観察する者」というふうにとらえました。瞑想修行中、ひたすら現れては消えていく「想念」を観察します。それが瞑想のミッションだと私は思っています。しかし、しばしばそれが頓挫します。ダメな状態に陥ってしまうのです。ダメな状態とはどんな状態のことでしょうか。
それは、観察を途切れさせ、想念の世界にふけってしまう状態です。観察を止めてしまい、想念と一緒に遊んでしまう状態、これはよくないのです。まあ、よくないといってもよくあることですから、そのような状態になっていると気づけば、それから離れてまた観察を続ければいいわけです。
お釈迦さまは想念にふけってしまう状態を「放逸」、観察ができている状態を「不放逸」と表現されました。遺言に言われたこの言葉は正にそのことを言われたのだと、私は解釈しています。
瑞巌和尚に話を戻しましょう。
瑞巌和尚は主人公に「ハッキリと目覚め、心静かな状態でいる」ことを要求します。逆に言えば、ついつい想念に耽り、妄想の世界に深入りしていまう状態に陥りがちな自分をいさめている、といえるのではないでしょうか。
「人に騙されるでないぞ!」というのは、他人に騙されるな、という意味ではなくて、妄想しがちなもう一人の自分のことです。瞑想修行は、もう一人の自分との闘いの様相を呈してきます。闘ってはダメなのですが、闘ってしまいます。騙されないようにハッキリと目覚めていることが必要です。続けることによって、主人公(観察者)のパワーが少しずつ増してきます。何度も騙されますが、我慢強く続けることが重要です。
【評唱】
無門先生がおっしゃるように「呼ぶ役、応ずる役、目覚めた人の役、騙されない人の役。どれを認めてもダメ」です。なにしろ、仏教の真理は無我ですから。呼ぶ者がいるわけではないのです。呼ぶ行為が起こっているだけです。呼ぶことが単に役割だと思っているのならまだしも、呼ぶ者=自分だと思ってしまっては間違うことになります。
無門先生が言うのは、呼ぶ役、応ずる役、目覚めた人の役、騙されない人の役は、あくまでも役割で、役イコール自分だと思ってはいけないよ、ということではないでしょうか。言葉の呪縛のようなもので、命名するとあたかもそれがあるように思われます。が、そのような実態は本当はありません。
覚者はいません。覚醒した状態があるだけです。悟った人はいません。悟った状態があるだけです。これをひっくり返すと、未悟の人はいません。未悟の状態があるだけです。凡夫はいません。覚醒に比べて凡庸な状態があるだけです。
ですから私は、日頃とんでもないドジをやらかすと、身内の人間にはこういいます。「ごめん。でも、この人は時々こういうことをやらかす人なんだから、許してやって。あとで、よく言い聞かすから、怒こっちゃダメだよ」ドジな人がいるわけではないのです。ドジな状態があるだけです。それをダイレクトには引き受けない。しかし、それで許されるかどうかは相手次第です(笑)。
ダメな人間がいるわけではない。ダメな状態がたまたま偶然そこに起こっている。 また、ひっくり返すと、立派な人間がいるわけではない。立派な状態がたまたま偶然そこに起こっている。それが真実です。そう考えれば、少し気が楽になるように思いませんか? 皆さんがこの考えに同意されるかどうかはわかりませんが、少なくとも私は熟考したうえで、このことが真理だと思っていますし、その考えに救われます。
ちなみに、ヒンズー教では「自我は想念の束」といいます。一日中、いろいろな想念が次々と湧いています。それを自我に都合よく、意図的に選択して、その束を自分だと思っている・・・そういうことです。それは、瞑想修行をして、想念を観察することで徐々にわかってきます。
【頌】
私も瞑想修行を始める前は妄想まみれの人間でした。今でもさして変わりはない妄想人間で、救われない奴ですが、「あ、妄想しちゃってる!」ということは気づけるようになりました。しかし、妄想が深くなると、どうやら鬱っぽくなってしまうようです。そういうときは薬(安定剤)のお世話になることもあります。何とか、薬なしで即今に留まりたいのですが、身近にピンチが訪れると、それは困難になってきます。状況に深く巻き込まれていってしまうのです。これが迷いの世界です。
では、迷いでない世界は何か。迷いから離れ、観察する視点がそれです。迷い(鬱っぽい、イライラする、落ち着けないなどの感情)と観察がイコールであれは、それらの感情は観察できません。それらの感情から離れたところに視点があり、感情を対象化する力がはたらいているから、わかるのです。
このはたらきが仏性と呼ばれているものであり、知の光、知の本質のように思われます。先に視点としましたが、点=ポイントがどこかにあるわけではありません。仮に視点といっているだけで、想念から離れた場所から観察している、といったほうが正確かもしれません。私はこのことを「仏性サイドからの観察」と呼んでいます。というのも、瞑想が進むにつれて想念と観察の間に距離ができるように思うからです。
想念と観察の距離が短いうちは対象化が不十分ですので、想念は煩わしく感じられますし、しばしば想念に巻き込まれて、「妄想に耽る」状態に転落するように思います。想念と観察の距離が取れるようになってくると、煩わしさが減り、落ち着いて観察できるようになります。
たとえ話でいうと、テーブルに同席した夫婦がケンカをし始めたとします。隣りの席にいれば、放っておけなくなり、ケンカに巻き込まれていってしまうでしょう。しかしテーブルを立ち、キッチンまで離れたらどうでしょう。ちょっと様子が違ってきますね。冷静になって両者の言い分に耳を傾けることができるかもしれません。思い切って隣りの居間まで移動してお茶でも飲みながら耳を傾けたらどうでしょう。さらに冷静になれ、ことの成り行きを落ち着いて見守ることができるかもしれません。
瞑想もそれに似ています。想念が止まらなくとも、距離ができてくることによって、煩わしさがなくなり落ち着いていられる、巻き込まれて妄想に耽ることがなくなるように思います。
ただ、意図して距離を取ろうとしても無理なところが、悩ましいところです。意図が想念を強めてしまうのです。なぜなら、意図は想念だからです。想念で想念を制することはできません。いえ、「制する」という言葉さえ意図の臭いがします。このことは言葉でうまく説明できません。
「ただ見守る」「知の光を当て続ける」ことによって自ずから想念の力が弱くなってきます。これは本当です。想念はコントロールできないものだ、ということがわかったうえで、想念を減らしていこうという・・・ここが日常生活と違うところで、非常に重要なポイントです。
普通は努力して何か成し遂げますよね。瞑想修行は違います。努力では無理、それに向かうことも無理、達するとか、成し遂げるというのも違う。
じゃあ一体何なんだ! ということですが、もともとあるソレ(真我)に気づきなさい、ということ。想念を少なくし、自我の力を弱くしていき、真我と同調しやすくしていく・・・という感じ。
また、覚者の言葉に従えば「真我に向かうことはできない、真我が向こうから来る」らしい。
だから、瞑想修行は待つ要素がひょっとしたら大きいのかもしれません。修行者には悩ましいポイントです。
想念の観察に関連して。
ワンダルマ仏教をご教授の山下良堂老師は、想念を雲にたとえ、観察は青空から、と教えていらっしゃいます。この場合、青空=仏性、雲=想念です。このイメージは非常にわかりやすいと思います。
永遠に生死を繰り返すもの(自我と肉体)を自分だと思っているのが、凡夫の悲劇(喜劇)です。仏性=真我は生まれもしない、死にもしない。私たちは本当はソレらしい。ソレは不生不滅、ソレは永遠。
ソレがしっかり腹の底から、納得できたらいいのになあ。
では、また、第13則でお会いしましょう。
次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第13則「徳山托鉢」