【無門関】やさしい現代語訳・解説 第11則「州勘庵主」

2023/09/11
 

 

こんにちは!

今回は、二人の僧のガッツポーズについて、です。

 

①本則

趙洲(じょうしゅう)、一庵主の処に到って問う、「有りや、有りや」。主、拳頭(けんとう)を竪起(じゅき)す。州云く、「水浅くして是れ舡(ふね)を泊する処にあらず」。便(すなわ)ち行く。又た一庵主の処に到って云く、「有りや、有りや」。主も亦た拳頭を竪起す。州云く、「能縦能奪(のうじゅうのうだつ)、能殺能活(のうさつのうかつ)」。便ち作礼(さらい)す。

私訳

趙州がある庵主の所に行って「有りや、有りや!」と問うた。庵主は拳を突き上げた。趙州はいった。「水が浅くて船を泊める所ではない」。さらに行って、また一庵主の所で問うた。「有りや、有りや!」。ここの庵主もまた拳を突き上げた。趙州はいった。「放って良し、奪って良し。殺して良し、活かして良しじゃわい」そして礼をした。

 

②評唱

無門曰く。「一般に拳頭を竪起するに、甚麼(なん)としてか一箇を肯(うけが)い、一箇を肯わざる。且(しば)らく道(い)え、[言肴]訛甚(ごうかいず)れの処にか在る。若し者裏(しゃり)に向かって一転語(いってんご)を下し得ば、便ち趙州の舌頭(ぜっとう)に骨無きを見て、扶起放倒(ふきほうとう)、大自在なることを得ん。是(かく)の如くなりと雖然(いえど)も争奈(いかん)せん、趙州却(かえ)って二庵主に勘破(かんぱ)せらるることを。若し二庵主に優劣ありと道わば、未だ参学の眼を具(ぐ)せず。若し優劣無しと道うも、亦た未だ参学の眼を具せず」。

私訳

無門曰く。同じように拳を突き上げたのに、なぜ片方を良しとし、片方を良しとしなかったのか。

さあ、言ってみよ。誤りはどこにあるのか。もしここの所をズバリいいえれば、趙州のおしゃべりも無力と看破し、助け起こしたり放ち倒したり、自由自在にはたらくことができよう。とはいえ、なぜだろう。かえって趙州が看破されているように見えるのは。

二庵主に優劣ありとみれば、未だに参学の眼なし。もし、優劣なしとみるのもまた参学の眼なしといわねばなるまい。

 

③頌

眼流星 機掣電 殺人刀 活人剣

私訳

眼は流星の如く、はたらきは稲妻の如く。人を殺す刀あり、人を活かす剣あり。

 

現場検証及び解説

【本則】

私はこの則全体が、「意地の悪い引掛け問題」だと考えました。その理由を次に説明していきます。

庵主とは「僧で庵室を構えている者」です。

仮に登場の僧をA僧とB僧とします。趙州はA僧は評価せず、B僧は評価しました。気になります。全く同じ反応(テキストの上では)に、違う評価を趙州は下したのです。そしてそのことは、第三者の私たちから見てわかるのかどうか、という問題です。どう考えてもそれは、現場にいないでわかることではありません。

しかし、無門先生はそれをけしかけます。「何とか見抜いてみせよ」と。ここが実は引掛け問題なのです。

こういった場合、たいてい何かいいたくなります。「A僧はこうだったが、B僧はこうだった。だから趙州は別の評価を下したのだ」というふうに。人は謎を前にするとそれを解いてみたくなるのです。「わからない」という状態を好みません。何か辻褄があわないことがあると、それを想像(=妄想)で埋めてしまいたくなるのです。これを読むと「たぶんこうだったのでは?」といいたくなるのではないでしょうか。

しかし、何かいわんとすれば、無門先生はおそらくバツ棒をくらわします。ですから、ここは「わかりません」と平然としていればいいところです。「人が悪いなあ、無門和尚は」という顔で。

 

【評唱】

無門先生はさらに、A僧B僧から趙州が看破されているのでは?というようなことを言い出します。これも、先のA僧B僧との違いに輪をかけてわけがわかりません。このことも現場にいないで伺い知ることは不可能です。やろうと思えば、必ず妄想状態に陥ってしまいます。無門先生は「ほれ、妄想してみよ」と誘っているのです。

「いや、現場では何かあったのだ。文章からはうかがい知れない何かがあったに違いない。無門先生はそのことを指摘されているのだよ」という意見があるかもしれません。しかし、それに対して私はこう反論します。「いや、この無門関という書物はそもそも時の皇帝陛下に献上されたものだ。テキストそれ自体で成り立っていないとおかしい」と。

テキストのなかに違いがないのなら、読者として取るべき態度は二つです。

㈠「A僧B僧に違いはない。違いを見た趙州が変なのだ。」というもの。この考えは、趙州和尚という立派な方を疑うことになりますから、趙州和尚(この則では修行時代なのかもしれませんが)のいうことは正しいはずだ、という前提を動かせない人には無理な立場です。しかし、ありうることではあります。

㈡「A僧B僧に趙州は違いを見たのだろうが、それはテキストからはうかがい知れない」というもの。これが私のとる立場です。あれこれ詮索したくなる思考癖に惑わされずに、留まるということです。おそらく、無門先生はこれを良しとされます。

さらに無門先生は、二庵主に優劣ありといってもダメ、優劣なしといってもダメとおっしゃいます。これは、優劣を問うような思考そのものを起こすな、ということです。このテキストを読みながら、そこを留まるのは至難の業です。そして、「そんなものわからんわい」とつらっとした顔でいられたら、無門先生はニッコリされるものと思われます。

 

【頌】

眼は気づきの繊細さを表現しているように思います。瞑想が進むと、微妙な心の動きがわかってきます。機は行動力のことでしょう。

殺活の表現がでてきます。殺活というのは、これは対人の殺活ではなく、エゴの殺活のことだと、私は解釈しています。ですので、殺は悪い意味ではありません。自我を殺した(発生させない)状態、即今です。そして、そこからあえて自我を使う(使われるのでなく)状態に出ることを活とか「はたらき」とかいっているように思います。殺活自在はそういうことです。

また、それと同様に、本則の縦と放もそのことを表しています。縦は殺、放は活に対応しています。縦は垂直軸のイメージ、竪指のイメージです。

 

では今回はこの辺で。第12則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第12則「巌喚主人」

 

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