【無門関】やさしい現代語訳・解説 第9則「大通智勝」

2023/09/11
 

 

こんにちは!

今回は、成仏できない、出来の悪い仏様の話です。

 

①本則

興陽(こうよう)の譲(じょう)和尚、因(ちな)みに僧問う、「大通智勝仏、十劫(じゅうごう)坐道場、仏法不現前、不得成仏道の時如何」譲曰く、「其の問い甚(はなは)だ諦当(たいとう)なり」。僧曰く、「既に是れ坐道場、甚麼(なん)と為(し)てか不得成仏道なる」。譲曰く、「伊(かれ)が不成仏なるが為なり」。

私訳

興陽の譲和尚に僧が問うた。「大通智勝という仏様は、十劫という長い時間道場に坐しておられますが、仏法現れず、仏道成らずで、これはどういうことなのでしょうか」。譲和尚はいわれた。「その問いは大変よろしい」僧はいった。「すでに坐っておられるのに、なぜ仏道を成し得ることができないのですか」譲和尚はいった。「彼は仏に成らないからだ」。

 

②評唱

無門曰く。「只だ老胡(ろうこ)の知を許して、老胡の会(え)を許さず。凡夫若し知らば、即ち是れ聖人。聖人若し会せば、即ち是れ凡夫」。

私訳

無門曰く。「達磨を知ったことは認めるとしても、達磨を会得したとは(容易に)認めんぞ。凡夫がもし達磨の知識を得たら、聖人になれる(聖人のふりはできよう)。聖人がもし達磨を会得したら、凡夫になれる(凡夫と同じだということがわかる)。」

 

③頌

了身何似了心休 了得心兮身不愁 若也身心倶了了 神仙何必更封侯

私訳

身体を会得するのがいいのか、心を会得するのがいいのか。心を会得すれば、身体に愁いはない。もし身心共に会得しているとすれば、そのような神仙人に、なぜ更に成仏という位を与えなければならないのか(そんな必要はない)。

 

現場検証及び解説

【本則】

大通智勝仏という方が、長い間坐禅をしておられるのにもかかわらず、仏法が現れず、仏にもなれないというのは、一体どういうことか、と僧は問います。至極まともな質問のように思われます。問われた譲和尚も「なかなかいい質問だ」と褒めています。しかし、答えがわかりにくいですね。「彼は仏にならないからだ」と答えています。質問僧はこの答えで納得したのでしょうか。おそらく、しなかったのではないでしょうか。

ここはまず、正攻法で進めずに、脇から攻めてみましょう。仏法とは何か、仏とは何かということをもう一度おさらいしてみましょう。

前に、仏性とは私たちの「生命エネルギーのようなもの」と申しました。それは私たち自身のことであり、対象化できないので科学でとらえることはできないのだともいいました。また、仏性とは眼耳鼻舌身意でとらえた情報を映す鏡、あるいは白スクリーンのような存在なのだといいました。これは誰でもそうなっている、当たり前の状態です。覚者も凡夫も何の違いもありません。しかし覚者は「仏性を仏性としてダイレクトに知っている」が凡夫は知りません。

ということは、もし凡夫が頑張って修行をして、覚者となったら、何がどう異なるのでしょうか。「仏法を仏法としてダイレクトに知っている」という以外、実は何も変わらないのです。覚者にも凡夫にも、仏法はどちらにも同じくはたらいています。ゆえに坐禅をしている人であろうが、坐禅をしていない人であろうが、「仏法が現れる」ことはありません。それは途切れることなく続いている何かなのです。

仏に成るという命題も同じく、「仏に成る」というような事態は起こりえないのです。凡夫もすでに仏です。まして覚者をおいてをや。

禅はストレートにものをいいません。回りくどい。誤解を招きかねない言い方をわざわざ選択しているように思えるのは私だけでしょうか。

 

【評唱】

無門先生の二つの対比は知識レベルの理解と見性体験して直に会得したそれとは、全く違うぞよ、という話です。私のような知的理解までの人間にクギを刺しているわけです。あんまりいちびりなさんなやと(笑)。しかし、知識だけでも聖人のふりくらいはできるそうです。やってみようかなあ。

逆に見性体験して会得してしまったら、「なーんだ、結局は凡夫となにも変わらんじゃないか」とわかるということ。心の構造は全く同じです。しかし、わかったら、おそらく心のはたらきかたが変わるんでしょうね。

 

【頌】

心の構造がわかってくると、体にも確かにいい影響があります。これは確かなことです。うまく瞑想修行を続けていけば、心は軽くなってき、体の調子も良くなります。私はずいぶんとうつ症状、不安症状に悩まされてきたので、それは自分の実感として、皆さんにお約束できます。

ただ、がむしゃらにやっているだけでは、効果はあまり期待できません。心を落ち着けて心の内容を観察することが重要です。科学的な観察方法とは違うやり方をします。科学は分析的に見ていきます。瞑想は違います。「ただ見る」という方法です。「介入しないで見守る」という言い方をする老師もおられます。そして、坐禅中だけでなく、日常茶飯事において観察を続けていくと効果が現れ始めます。最初は根気が要りますし、それなりに時間もかかりますが、必ず効果はあります。なければやり方にどこか不備があるのです。何か変だなと感じるのなら、勇気をもって謙虚に修行を点検してください。

心身ともに会得している神仙人とは、大通智勝仏のことを言っているのでしょう。そのような幸せな人に更に成仏という称号を与える必要はあるのか、と。禅らしいひねくれた言い方ですね。大通智勝仏はすでに悟っておられるのです。仏法現前、成仏という言い方が仏法に背いているという話です。

 

第10則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第10則「清税孤貧」

 

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