【無門関】やさしい現代語訳・解説 第8則「奚仲造車」

2023/10/08
 

 

こんにちは!

今回は車を発明し、神とあがめられた中国の偉人が登場します。

 

①本則

月庵(げったん)和尚、僧に問う、「奚仲(けいちゅう)、車を造ること一百輻(ぷく)。両頭を拈却(ねんきゃく)し、軸を去却(こきゃく)して、甚麼辺(なにへん)の事(じ)をか明(あき)らむ」。

私訳

月庵和尚は僧に問うた。「奚仲という人は、百台もの荷車を造ったそうだ。また、車輪を外し車軸を抜いて解体したそうだが、そのことで一体何を明らかにしたのか」。

 

②評唱

無門曰く。若也(も)し直下(じきげ)に明らめ得ば、眼(まなこ)、流星に似、機(き)、掣電(せいでん)の如くならん。

私訳

もしこのことを直に理解すれば、眼は流れ星の如く、機転は稲妻のようにはたらくだろう。

 

③頌

機輪転処 達者猶迷 四維上下 南北東西

私訳

輪が転がってはたらく先は、達道の人さえなお迷う。四維上下、南北東西、すべての方向に(迷うのだ)。

 

現場検証及び解説

【本則】

奚仲は4000年以上前の人で、車の発明者。この人のお父さんは船を発明しました。息子は荷車を引く馬を飼いならす技術を開発したとか。親子三代にわたって運送業に貢献したのです。

本則では無門先生、車の発明者を持ち出して、何が言いたいのでしょう。もちろん車のことを言いたいわけではありません。車をたとえに、心の構造のことを言っているのです。

仏教の教義では、我は存在しません。無我が真実です。しかし、普通自分はいるように感じます。私も瞑想修行を始めた当初は、思いっきり頭を悩ませていました。「何がどうなって、無我なのだ?」と。

ところが、瞑想を続け、心の観察を継続的に行っていくと、そこのところがなんとなくわかってきました。思考とイメージで、自分という存在をいわばでっち上げているのが、本当のところです。「まさか!」と思われるかもしれませんが、そうなのです。

一人一人がそう思い込んでいるだけでなく、社会が有我(個人)を原理として形成されていますから無理もありません。家族、社会は個人(有我)になりなさいと教化しますから、当然そうなります。しかし、事実は違います。

社会のお約束は有我、しかし真実は無我です。そして人の苦しみは有我(自我)が原因です。

また、本来無我であるにもかかわらず、無我から自我が生まれていくことは、正常なことです。人が成長していくことの大部分は自我形成なのかもしれません。自然にしていればそうなります。それゆえに社会も自我を基本に設計されてきたのです。

仏教を修するということは、その自然な状態を解体するということです。自然に形成されてしまう自我(エゴ)を解体する、またはほどいていく行為だと私は思います。ですから、社会の発展とか成長とはあまりソリがよくないかもしれません。お釈迦さまは「修行とは川の流れをさかのぼるようなものだ」とおっしゃっています。

上記のようなことを踏まえて本則を見ると、車のたとえが何を隠喩しているかがわかってきます。

車(自我)を形成して世の中の役に立つような仕事をする、これはごく普通の、むしろ感心な考えのように思われます。しかし、自我は立派なことも成し遂げますが、むごいこともたくさんやらかします。車は物を運んで人に楽をもたらしましたが、果たしてそれだけでしょうか。長い歴史の中では、災厄ももたらしたのではないでしょうか。

自我と自我がお互い牽制しあい、さらには殺し合いの戦いもする。それが人間の歴史です。

奚仲が車を造ったということで、自我が形成されたことを暗示しています。逆に車を解体したことで、自我は解体されうるものだ、ということを暗示しています。また、解体した後には何も残りません。奚仲が明らかにしたのは人間は本来無我だ、ということです。

 

【評唱】

今回の無門先生の評唱は面白味に欠けます。ベタというか、そのまんまですね。無我がわかると、心がスムーズにはたらくよ、ということでしょうか。

私の達成は中途半端なものです。また「自我は無我なり!」と徹見し、次の日から見違えるように人生が変わったという経験もありません。ですが、しつこく自我の観察だけは続けてきました。瞑想修行を続けていらっしゃる仲間に向けて、その経験から少しお話しします。

自我という実態があるわけではありません。自我は想念の束といわれることもあるように、思考とイメージで出来上がっています。通常それと一体化していますが、瞑想修行を続けると、想念とそれを観察する者の分離が起こります。最初は観察が途切れて、想念に巻き込まれがちです。想念にふけってしまうのです。想念にふけってしまったときはそれに気づいて、また観察を続けます。ここは根気が必要です。

瞑想修行を継続的に行っていると観察力が増し、観察の土台のようなものが確立されます。日常生活の中で、自我を観察する習慣ができると、自我がどんな存在なのか徐々にわかってきます。自我はとんでもない奴です。わがまま、自分勝手、見栄っ張り、残酷、言い訳がましい、弱虫、無責任・・・人間のダメなところが全部詰まっているように思われます。目を背けたくなるような自分がそこにいます。これは私の体験です。

そこで、注意して欲しいことが、2つあります。

ひとつは、そこに見た自我は自分とイコールではない、ということです。自我は他の方々も似たり寄ったりです。それを上手に押し通す人と下手な人がいるだけです。自分の中の自我も他人の中の自我もおそらく同じものです。同じく醜い。ですから、あんまり落ち込まないでほしいのです。

ただ、醜いから以後一切目を逸らすという選択は残念です。それと共に生きる選択をしてほしい。辛い選択ですが、ここを通らないと、少なくとも逃げないで根気強く取り組まないと、自我から無我へ向かうことはできません。聖人はともかく凡人は無理です。私はそう思います。

もうひとつは、自我をコントロールしようとしないでほしい、ということです。自我=自分ではない、と先にいいました。しかし、自我は自分のような気がしますし、自分の介入でなんとかなるもの、だと思ってしまいます。それは無理もありません。ですが、その方法は上手くいきません。やってみるとわかりますが、逆効果なのです。短期的には上手くいったように見えるかもしれませんが、自我はむしろ強くなってしまうのです。

では、どうするか。気づいているだけでいいのです。介入しないで見守る、という方法を学んでください。自我は自分の中に潜んでいる厄介な生き物のようです。私は自分の中に病んだ不良少年がいる、と感じています。自我が暴れだすと叱りはしませんが、声掛けくらいはします。「そうか、そうしたいんだね」「そうか、悔しいんだね」「そうか、めげてしまうのか」そんな感じで、自分の中の自我と付き合っています。

自我は理解してやると大人しくなるのです。

自我が弱くなると、心がスムーズに動くようになります。それは私の感覚によると、自我を無意識のうちにケアするエネルギーが他の事に使えるからだと思います。自我が弱くなるというと、無責任になったり、気弱な態度になるように思われがちですが、そうではありません。明るく、気楽に生きられるようになるのです。

 

【頌】

「輪が転がってはたらく先は、達道の人さえなお迷う」とはどういうことでしょうか。禅は自我を肯定的にとらえるようです。ですが、禅者が凡夫と違うのは、無我を知っているということです。無我を知った上で、仮の車を走らせることもある。俗世間を渡るには仕方ありません。しかし、知った上でと言いながら、ついついマジになってしまって迷うこともある。そこはご愛嬌だと。そのようなことを言っているように思います。

三句目、四句目は、仏性のはたらきは四方八方自由自在にはたらくのだぞ、と言っているように読めます。今回はこの辺で。

 

第九則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第9則「大通智勝」

 

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