【無門関】やさしい現代語訳・解説 第5則「香厳上樹」

2023/09/11
 

こんにちは!

今回はトム・クルーズのようなお坊さんが登場します。さて、どうなりますか・・・。

 

①本則

香厳(きょうげん)和尚云く、「人の樹に上るが如し。口に樹枝を啣(ふく)み、手に枝を攀(よ)じず、脚は樹を踏まず。樹下に人有って西来の意を問わんに、対(こた)えずんば即ち他の所問に違(そむ)く、若し対えなば又た喪身失命せん。正恁麼(しょういんも)の時、作麼生(そもさん)か対えん」。

 

私訳

香厳和尚が言った。「樹の上にいて口に枝を含み、両手両足は空中にある。下から学僧が『禅とは何か!』と問いかけた。さて、対応しなければ学僧に背く、対応すれば命を落とす。こんなとき、一体どう対応する!」

 

②評唱

無門曰く。「縦(たと)い懸河(けんが)の弁有るも、惣(そう)に用不著(ようふじゃく)。一大蔵教を説き得るも、亦た用不著。若し者裏に向かって対得著(じゃく)せば、従前の死路頭を活却し、従前の活路頭を死却せん。其れ或いは未だ然らざれば、直に当来を待って弥勒に問え」。

 

私訳

無門曰く。たとえ滝のごとく弁舌がたったとしても、すべて役立たない。一大蔵教を説き得たとしても用をなさない。もしこの場面でズバリ対応できれば、死んだものを生き返らせ、生きたものを死に至らしめるのだ。それがまだわからぬようであれば、弥勒菩薩が来るまで待って直接聞くがよい。

 

③頌

香厳真杜撰 悪毒無盡限 啞却衲僧口 通身迸鬼眼

 

私訳

香厳和尚はまことに杜撰(ずさん。前例のないことを平気でやる)。思考をとめどなく吐き出さす。禅僧は口を啞(おし)にして、通身これを鬼の眼に。

 

現場検証及び解説

【本則】訳でおおよその状況はわかっていただけたかと思いますが、かなり無理な態勢です。口で樹の枝をくわえて手足をブラブラさせた態勢で、そのままいられるでしょうか。おそらく無理でしょう。トム・クルーズもお手上げです。ここはまあ、お話だと思ってください。それに加え、落ちたら死ぬというのですから、かなりの高さにぶら下がっているのでしょう。少なくとも10メートル以上はありそうです。

その下に学僧がやってきて「禅とは何か!」と問いかけます。応えられる状況ではありません。口がふさがっています。しかし、応えないことも許されないようです。絶体絶命のこの境涯をどう切り抜けるのかが問題のようです。

これは最初に答えを言ってしまうと、「仏性とは言うに言われぬ世界のことだ」ということを絵的に表したものです。

前に仏性の説明をしました。そのときに説明したように、仏性とは眼耳鼻舌身意ではとらえられないものだ、といいました。また、仏性とは眼耳鼻舌身意を映す白スクリーンのようなものだ、といいました。白スクリーンは眼耳鼻舌身意で認識したものを映しはしますが、それ自身を眼耳鼻舌身意でとらえることはできません。

ゆえに仏性は最も身近ではあるが、常に見落とされている何かなのです。覚者は「ソレをソレとして知る」という体験をしてソレをダイレクトに知っていますが、凡夫(未悟の人)はソレを知りません。

凡夫はソレを知らないので、言うことはできません。それは食べたことのない食品の味をいうようなものです。しかし、覚者もそれをいうことはできないようです。食べたことはあるのですが、その味は何とも表現のしようもないものらしいです。私は覚者ではありませんので、それがどんな感じなのか、正直言ってよくわかりません。食べたのなら、何か表現のしようがありそうなものですが・・・。

禅僧だけが、そう主張しているわけでもなくて、ヒンズー教の覚者もそのようにいっています。しかし、言うに言われぬものにもかかわらず、表現しようとする、させようとするのは、よっぽどソレが素晴らしいもの、みんなと共有すべきものなのだと、私は想像しています。

口がふさがっていようが、ふさがっていまいが、ソレ(仏性)をいうことはできないのです。「禅(仏性)は言葉では表現不可能なもの」というのが、禅の公式見解なのです。

 

【評唱】無門先生は「禅は言葉ではない」ということを、ことさら冗長に述べられます。ここがややこしい。造作が派手。修飾語も多い。これはお国柄なんでしょうか。

「死んだものを生き返らせ、生きたものを死に至らしめる」とはどういうことでしょうか。禅語で「殺活自在」なんてこともいいます。これは肉体的な死のことではなく、自我の死のことだと思います。悟りに達したならば、対する相手の境地(自我の在り様)を奪ったり(殺)、逆に境地を活かしたり、自由自在に操れるということだろうと思います。

弥勒菩薩は、お釈迦さま入滅後56億7000万年後に現れるそうですので、「弥勒菩薩に直接問え」というのは、なんだか意地悪ないいかたです。

 

【頌】杜撰という語は普通「いい加減だ」という意味で使われますね。しかし、語源を調べてみると、宋の時代の杜黙(ともく)という詩人が、格式に合わない詩ばかり作っていたことから生まれた言葉らしいです。撰は「詩を作ること」だそうです。

ゆえに、ここは香厳和尚は「前例のないことを平気でやる」というくらいの意味でしょうか。また、これは前にもいいましたように、香厳和尚を貶しているようでいて、実は大変評価しているのです。若者風に言うと「その言い方、まじやべぇ」みたいなことでしょうか。

二句目の悪毒は思考のこと。絶体絶命の境地に陥れ、修行僧の思考を一気に蕩尽させてしまおう、という目論見です。

三句目、四句目は樹上の僧を思い浮かべてもらえれば、わかると思います。

いかがでしたでしょうか。絶体絶命の境地というのは禅が好むシチュエーションです。悟るにはこのような状態になるのが良いのか、フムフムと納得はするのですが、いざそのような展開を前にすると、それを避けようとするのが人間です。悟りたい! でも切羽詰まりたくはない。一体どっちやねん、という話(笑)。

第六則で、またお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第6則「世尊拈花」

 

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