【無門関】やさしい現代語訳・解説 第4則「胡子無髭」
こんにちは!
今回は達磨大師が登場します。達磨大師は口髭を生やしておられます。ところが、「達磨大師には髭がない」と言い出す人が現れます。やれやれ、どうしたもんでしょう・・・。
なんとか、この難局を乗り切ってみたいと思います。ご一緒にどうぞ!
①本則
惑庵曰く、「西天の胡子、甚(なん)に因ってか鬚無き」。
私訳
惑庵和尚は言った。「西方からきた達磨大師に(あるはずの)鬚がないのはなぜか」
②評唱
無門曰く。「参は須らく実参なるべし、悟は須らく実悟なるべし、悟は須らく実悟なるべし。者箇の胡子、直に須らく親見一回して始めて得べし。親見と説くも、早く両箇と成る」。
私訳
禅の修行は、実参実究(体験とその吟味の相互作用)でなければならないし、禅の悟りは(観念的なものでなく)実体験でなければならない。この達磨大師と、一度は直に親しくお会いしてこそ、悟りといえるのだ。しかしながら、親しくお会いする、などと説くともういかん。(達磨大師とお前と)二人いるようなことになる。
③頌
痴人面前 不可説夢 胡子無髭 惺惺添矒(岩波文庫ではりっしん偏です)
私訳
無知な者には夢(のような儚いものを)を説くな。達磨大師に鬚ないさまは、ハッキリに添えられたボンヤリだ。
現場検証及び解説
【本則】「達磨大師 絵」で検索すると、一目瞭然、達磨大師には髭ありまくりです。なぜ、その達磨大師をつかまえて或庵和尚は「髭が無いのはなぜか」と問うのでしょうか。
それは、達磨大師の本体、仏性、生命エネルギーのようなもの、を指してそういっているのです。仏性には髭どころか、顔すらありません。そもそも物質ではありませんし、対象化できないものですから、眼耳鼻舌身意でとらえることもできません。そのことを「達磨大師」という個人名で指し示すので、混乱を招きます。達磨大師は覚者であり、したがって達磨大師=仏性なのだ、と。仏性には髭なんぞないぞ、修行者よ、それを看よ、看よ、というわけです。
禅はどういうわけか、このようなややこしいもののいいようを好みます。私はものをハッキリとわかりたいタイプなので、最初「無門関」を手にしたときは、相当イライラしました。馬鹿にされているようで、頭にきたのです。今その積年の怨み辛みを晴らすつもりで、解読に取り組んでいます(笑)。
【評唱】無門先生はここでいいことをいっています。修行は実参実究だぞ、と。ただ、実参実究だけだとよくわからないので、少し説明を加えます。
普段あまり意識されませんが、人間はかなり思考に頼って生きています。思考、言葉は便利なものです。言葉なしでは物事の進み具合はずっと遅くなるでしょう。
仕事の伝達を例に考えてみましょう。小売り業の場合、レジ打ちの仕事を教えるなら、まずマニュアルを読ませ暗記させて、それから現場で体になじませるように訓練します。最初は大変ですが、慣れると体が勝手に反応するようになります。
現場でわからないことがあれば、マニュアルに戻り基本情報を確認します。マニュアルに事例がない場合は、マニュアルに付け加え、または書き換えを行います。現場とマニュアル(言葉)を行ったり来たりしながら、学んでいきます。
仏教を学ぶ場合も、そのようにすべきなのです。マニュアル(仏教の場合はお経)を読むだけではダメなのです。現場に出てお経の内容を実体験のなかで確認、納得していかないと、意味がありません。仏教は「心の科学」と呼ばれることもあるくらいです。自分の心をよく観察して、お経の内容と引き比べ、納得するまで探究することが必要です。そのことを無門先生は「実参実究」といっています。
禅では師と問答したり、坐禅したり、作務したりということになりますが、さらに具体的いえば、心の観察と探究、そして理解のことだと、私は考えています。
また、禅ではことさら実体験が強調され、文字による学習を軽んじているような印象を受けることがあります。確かに実体験は重要ですが、実際には文字による勉強も必要だと思います。両者の相互作用のもとで、理解が形成されていくのです。学問仏教がはびこった時代の、アンチテーゼとして不立文字が強調されただけで、仏教の学習が不要だといっているわけではない、と私は思います。
達磨大師と親しく会うというのは、仏性をダイレクトに知るということです。そのような体験をすれば、達磨大師とお前は、仏性というレベルでは何の違いもない、といっています。
【頌】無知な者とは仏性の自覚がないものです。仏性(変化しないもの)の自覚がない者は、現象(変化するもの)の方に気を取られますから、仏性を説かれてもチンプンカンプンです。なので、無知な者に夢のように儚くみえるもの(仏性)を説いても無駄だということです。一句目と二句目では現象がハッキリしたもので、仏性はハッキリしないもの、つまりボンヤリしたものととらえられています。
ところが三句目と四句目ではその扱いが逆になっています。
仏性はハッキリしたもの(惺惺)で、現象はボンヤリしたもの(矒)です。
達磨大師(=仏性)に髭(=現象)があるさまは、ハッキリ(仏性)に添えられたボンヤリ(現象)なのだ、ということです。
凡夫には現象がハッキリとあり、仏性がボンヤリしています。それとは逆に覚者には、仏性こそハッキリとあり、現象はボンヤリしたもの、うたかたものだということです。
では、また。第五則でお会いしましょう。
次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第5則「香厳上樹」